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”銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに”

 
『 銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに。
  シロカニペ ランラン ピシカン、 
  コンカニペ ランラン ピシカン。』

 このフレーズを、耳にしたことはあるだろうか。
 アイヌ民族の叙事詩、ユーカラ(yukar)の、ある物語の一節で、物語は語り手であるフクロウの神様が、この一説を歌いながら人間たちの村を見下ろして飛んでいる語りからはじまる。

 綺麗な響きだな、と私は思う。


 先日、色々と立て込んでいた仕事がひと段落したので、一日、久しぶりの休日を過ごした。

 降っているのか止んでいるのかわからないような細い霧雨のなか、普段はアルバイトに行くときにしか乗らないバスに乗って、私はふらふらと街に出た。
 
 あれやこれやと尽きないタスクに追われるようにして走る日々のせいか、立ち止まった日に見る人々の暮らしは見ていてホッとする。
 立ち話をしているおばあちゃん。スーパーに買い出しに来た主婦。おそらく公園に遊びに行く途中の親子連れ、その横をゆっくりとした速度の自転車のおじいちゃんが通り過ぎる。駅に近づけば、ランチを食べに向かう昼休憩中の会社員、学校が早く終わったのか制服姿で歩いている学生たち。

 私が走って、走り回っている間にも、穏やかな日常がゆったりと繰り返されている。そのことが不思議なようであり、今同じ空間にいるこの人たちは私の知らないそれぞれの人生を生きているのだと、眺めていて妙に納得できる気もする。
 世界がどうこう、と言っている人の大半は本当の「世界」なんて見えていないんだ。自分の周りしか見えていない。でも、人間なんてそんなものなんだろう。

 足の向くまま立ち寄った古本屋で手に取った『アイヌ神謡集』、そこで冒頭のフレーズ”銀の滴降る降るまわりに…”を見つけた。
 このフレーズに惹かれて読み進めていて、私はハッと思い出した。
 私、この物語を知っている!

 私がその物語を知ったのは幼いころに読んだ一冊の絵本だったと記憶している。
 当時、ふりがなを振られて読めた「あいぬ」というのが何なのかもよくわからなかったし、こうして思い返すまで、あの絵本を読んだことさえずっとずっと、記憶の彼方にあった。でも、何か引っかかるものがあったことには違いない。



 アイヌといえば、昨年の夏、北海道の二風谷(にぶたに)に行った。
 そこには、未だにアイヌの誇りを持って生きている人がいる。彼らは自分たちの工芸を大切にし、自分たちの歌を歌い、自分たちの踊りを踊る。俺達は、アイヌだ、と。

 その、自分たちの民族に揺らぐことない誇りを持った姿は、とても印象的ではあった。
 と同時に、話を聞いていくと、その姿をただの美談として片付けることのできない差別の歴史もまた浮かびあがってくる。

 今の状況については詳しくないが、私の短い北海道滞在のなかで立ち寄ったゲストハウスで会った北海道出身の人が言うには、「二風谷は知らないけれど、アイヌ民族なんていないのであって、奴らは補助金目当てだ」そうだ。
 今は、差別というよりは無知と無関心なのかな、と感じた。どうして知りもしない相手のことを、そんな風に言えるのだろう。

 狩猟の民、アイヌ。
 生活のまわりにあるものを、少しずつ自分のほうに取り込み、バランスをとりながら生きている。

 アイヌ舞踊も、ツバメが楽しそうに舞う様子をモチーフにしていたり、狩りの場面で美しい鳥を射るのを躊躇する踊りであったり、
子守唄であったりと、自然の隣での生活とともにできあがってきた文化であることを感じさせる。
 アイヌ民族として生きた祖先の存在を感じながら生きている。そんな様子は、東京での生活からはなかなか知る機会が無いが、「知らない」ことと「存在しない」こととはまた別の話である。

 二風谷の彼らは時々、アイヌ民族や自然環境関連のイベントで全国各地に行くことがあるという。
 近日また、東京に来るそうなので、そのときは会いに行ってみようかなと思っている。



 銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに。
 自然の声を聴き、先祖代々伝わるものに守られながら生活を営んできた彼らだからこそ紡げた一節。
 それは、ユーカラにうたわれる物語の語り手が生き物や神であるように、彼ら自身の在り方をあらわす。

 私はその一端しか見ていないのだとも思うが、そこには、後世の子孫たちに自分たちの民族としての誇り、忘れてはならないものを繰り返し伝えるための先人の知恵が、丁寧に丁寧に織り込まれているように思えてならない。

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