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人間には、非日常の場であそぶことが必要なのだと思う


あの日、私は「非日常」のなかにいた。

広島県の尾道から愛媛県の今治を結ぶしまなみ海道は、瀬戸内の島々を6つの橋で繋ぐ。
尾道側からまず、尾道水道を挟んで対岸が向島(むかいしま)、そしてその次が因島(いんのしま)。
そこからしまなみ海道をはずれて、所要時間3分という”日本一欠航しづらいフェリー”で海をわたった生名島(いきなじま)。その東に、人口500人という離島、佐島(さしま)という小さな島が位置している。

私は今回、この小さな島の秋祭りに参加してきた。
潮風が秋を運ぶ小さな瀬戸内の離島にて、日常と非日常の対比を強く意識して過ごした3日間。それはまた、人間のコミュニティのあり方を考える時間でもあった。

***

その、「祭り」の時間は、社で祀っている神の魂を神輿に移すことからはじまった。

日本神話に由来するというニワトリの声を模した儀式で神を目覚めさせ、その魂を神輿へ入れる。
その瞬間から後に神様を帰すまでは神がこちらの世界に遊びに来ている「ハレ」の時間、非日常の時間。祭りの間、島は、日常とは異なった時間の流れに飲み込まれる。

町をめぐる神輿のなかに”神”を呼び込んだその瞬間から、人間しか存在しないはずのこちらの世界に、人間よりも上位の存在が立ち現れ、神>人間という図式が完成する。

つまり、”神”を”こちらの世界”に呼び込むことで、世界の秩序を変質させる。
なるほど、よくできた装置だなあと私は思った。

非日常を共有し、ひとつのものに気持ちをあつめる。
祭りのなかでの様々な役割はあるものの、神がこちらの世界に来ている間、神と対比すれば誰もが「人間」としてひとくくりになる。
それが、多様な人間がともに生きていくということに寄与していることは想像に難くない。

普段は、各々異なる仕事をしている、世代も違う男たち、女たち。
神輿の担ぎ手、だんじりの担ぎ手として集った彼らは日常の姿を脇に置いて、祭りという非日常のなかにあそぶ。

そこに、出自は絡まない。
そこに、国籍は関与しない。
そこで、名前や普段の職業は問われない。

いつもは「日常」なんて意識することはなかったけれど、私が居たのはその対極の「非日常」の時間のなかだった。
また、同時に、人間にはそれが必要なことなのだと肌で感じた。

人と人とがより良く生きるということ。

そもそも私たちは、異なる思考をもった人間同士が集まって生きている。まずはそのことを心に留めておくべきであって、誰もが完全に自分と同じ意見を持つことなど、幻想にすぎないと思う。 

それでも、同じ目標を見いだせたとき、目線の先に重なるものを共有することができたとき、人と人とはつながることができる。

人間と人間。
私たちは様々なつながりのなかで生きている。
つながりが断ち切られ、つなぎとめるものがなくなってしまったとき、人間はどうなってしまうのだろう。

多分、「生きる」という最上位のプログラムがどこか正常に機能しなくなる。それは、決して他人ごとではなく、今や、誰にでも起こり得ることなのだとも思う。
 

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