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ひとは「ストーリー」に対価を払う


 ひとは、誰しも「物語」を求めている。

 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、人間は「自分が持っていないストーリー」を知ることに魅力を感じる生き物なのだと、わたしは思う。


 絵画だってその典型例。
 色彩や形態の魅力があることはもちろん、そこには、作品に紐付けられた「ストーリー」がある。
 ストーリーが知りたいから、人々は作品に惹きつけられる。

 時々制作アシスタントをしているアーティストの姿を見ていても、そう思う。
 もし彼が、ただキャンバスに色を付けているだけであれば、彼の作品は”色のついた物体”でしかない。でも、現実には彼の”作品”に多くの人が対価を払う。
 それは、そこに「語られるストーリー」があるから。わたしはそう考えている。

 人は元来、物語が好きなんだろう。
 伝説はどの文化においても語り継がれてきたし、物語を聴きあう集会は多くのコミュニティに欠かせないものだった。小さい頃、寝る前にはいつも物語を聴くことが習慣だったし、続きが気になるストーリーにのめり込んだ経験がない人はいないのではないだろうか。
 言葉が発明された頃、きっとその時代からわたしたちは「語る」こと、それを聴くことが大好きだったとわたしは想像している。

 同じ一杯のカレーライスであっても、ただ「カレーライス」というよりは「昔、旅先で食べた味が忘れられずに自ら模索しつくりあげた究極のカレーライス」というほうが、より魅力的に感じるのではないだろうか。


 ひとは皆、「それぞれのストーリー」を生きている。
 機会がなければ、本人しか知らないストーリーの数々。時には、数人の仲間で共有する、とろけるデザートのようなストーリー。もう二度と思いだしたくないと心の底から思ったストーリーも、やがて熟して自分以外の誰かのために広めるべきものになっているかもしれない。

 逆にいえばそれは、なんでもないものがストーリーと絡み合い響き合うことで、何倍にも素敵なものになるということ。

 別に、素材はなんでもいい。
 より良い素材はより良いものに通じるのだろうけれど、人間というのは、まず初めに「ストーリー」の魅力に嗅覚がはたらくようにできているような気がする。

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