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あの旅を終えて今、


 このところ、考え方がぐるぐるとアップデートされている。
 その理由が何かはもう、はっきりしている。
「人と会い、人と話す機会が増えた」こと。
そもそも自分の考え方をアップデートしていくのには、たくさんの人と会うだとか、外からの情報に触れることが必要なのはずっと”頭ではわかって”いた。

 だけど、”頭でわかって”いるところまででは、たいして先には進めない。
「口では何とでも言えるけどね。最後は行動したことがすべてだからね。」いつだったかのバイトの帰り道、社員さんがぽつりと呟いたそんな言葉が思い出される。
 あの日それを聞いて、私はなんだかハッとして、内心焦りながら自分に問いかけたのを覚えている。 私は行動しているだろうか、口先だけ器用になっていないだろうか、と。

 あの、春休みのアメリカ横断は、半年以上経った今でもふとした時によみがえるくらい、衝撃をうけた旅だった。

 毎日毎日、noteを書こうとして、しかし、この、書くために考えている時間はインプットの、発見の機会を摘み取っているんじゃないかという思いも同時にあって、いつしか手が止まった。
 なんで書かないの、絵も描かないの。今残さなければ、消えてしまうよとChizuruにも何度も言われた。

 半年以上経った今、振り返る。

 そのときに書いていたら書けた文章もあったのは事実でも、あの時の私には、受け止めるだけで精一杯だったのだと思う。
 相手が話している英語を聞き取れて、理解できるときもある。だけれど返そうと思って出てくるのは日本語で。じゃあ英語で考えるようにしよう、そう意識すればするほど出てこない語彙を、日本語の思考が補完しにやってきた。

 一緒に行ったChizuruは英語が話せる。でも、彼女もはじめから話せたわけではないし、今のさきと同じような頃があったのよ、なんて時々話す。
 知り合ったのはつい三年前だから、そんな頃の彼女の姿はなかなか想像できなかったけれど、彼女もこんな気持ちだったのかな。
 左の運転席でハンドルを握るChizuruの横顔を見て、何度も、すごいな、と思った。私は、運転免許も持っていないし、彼女人生の半分も生きていない。とてもとても、今は届かないことがいっぱいだな。今は、でも、いつかは近づける。

 あとは、自分しだいなんだ。

 自分がどうなりたいか。もし、本当に望んでいるのだったら、できるところまで歩き続けることができるんだろう。
 それならば、私は。

 自分が頼りにしていた「今までの自分」が通用しない世界に置かれた時、人は戸惑う。そのとき、すぐにそれを受け入れられる人、ためらってしまう人がいる。
 私は、おそらく後者であった。少なくとも、アメリカ横断の旅において。
 アメリカ横断の旅においては、私の持っているものでは太刀打ちできないと思う場面がいくつもあった。同時にそれは、「今までの自分」に固執することから一歩距離を置くことができていたなら、向き合うことは決して難しいことではなかったはず。

 それは、あの旅を終えて、時間が経つとともに少しずつできるようになり始めていると思う。

 今、色々な人と関わることが増えて、日々思いもしなかった切り口や視点が見えてくる。
 その人と同じ場所に行く必要は無い。だけれど、自分は何を望むのか。

 自分をひらいて、目の前のものごとと関わっていくこと。もう、目をつぶったままではいられない。
 ひとつ、息を吐いて、吸う。

 踏み越えるのを怖がって、見ないふりをしていたスタートラインは、今、私の後ろにある。

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