スケッチ - 赤いボタン
駅と駅の間で止まったままになっているこの古い高架モノレールの窓からは、朝日に輝く緑青の海が見えていた。昨晩の焚き火跡は落書きだらけの車内にまだ焦げ臭く香っており、陽の光は車内に長い影を作っていた。照明は切れていた。単に電球が切れているのか、それとも何かが故障してしまっているのかは、カアスにはわからなかった。彼は赤紫色の薄い綿の座席に腰を深く座り直すと、がたつく窓を開けた。潮風が車内の空気と彼の短い髪を洗い流した。彼は窓枠に細い肘を預け、しばらくそのままにしていた。いい気分だった。
車内の空気が入れ替わり、他の乗客も次々に起きだした。あちこちで欠伸があがる。身体を捻り、関節を鳴らしながらカアスの元に近づいてきたのはまだ眠そうな顔をしたキインだった。彼はカアスの向かいに座ると、窓の外を見ながら、今日はどこに行こうかと言った。カアスはまだ決めていないと返した。
カアスは〈荷物〉を身体の傍に寄せた。キインは気のいい性格をしていたが、どこか人を不安にさせるような目つきをしていた。キインはカアスよりも身体が大きく、その髪の毛はいつもめちゃくちゃな方向へねじれていた。二人ともまだ若い少年で、拾った揃いの黒いつなぎを着ていた。それは汚かった。
「それ、結局中身は見たのか」
キインはカアスに聞いた。
「まだ見てない」
カアスはキインに答えた。
「気にならないのか」
「見ちゃ駄目って言われてるから」
「気にはなるだろう」
「気にはなる」
「なら見ればいい」
「仕事にならないよ」
カアスは配達人だった。運ぶ物はその時々により様々であった。今回の〈荷物〉のように、目的もよくわからない謎めいた仕事をすることもたまにはあった。
モノレールの車内を〈車掌〉が乗客から宿賃を徴収してまわっていた。このモノレールはもう随分と長い間動いておらず、外装は錆びついており、いつしか簡易宿泊所として使われるようになっていた。
カアスは〈車掌〉に宿賃を支払った。これで彼に残ったものは、今運んでいる〈荷物〉だけになった。
〈荷物〉は正方形のプラスチック製の箱である。軽く、銀色で、カアスが両手でちょうど抱えられるほどの大きさだった。振ってみるとからからと音がした。駅ビルで出会った〈博士〉と名乗る依頼人からは、中身を決して見ないようにと言われていた。
誰に渡せばいいのかと聞けば、然るべき人に、とのことだった。
然るべき人が誰なのかは、カアスにはまだわかっていなかった。
カアスは空を見上げた。一本の軌道リングの死骸が、〈天の橋〉が、青空をまっすぐと貫いていた。
カアスとキインは、モノレールの窓から垂れている縄梯子を伝って、真下に広がる〈駐車場〉へと降り立った。話し合った結果、今日は〈駐車場〉から始めることにした。〈駐車場〉には何百台ものもう動かなくなった車が並んでいる。〈洗浄〉によって白痴になった人々はその中で何かの肉を買ったり、拾ったがらくたを売ったり、寝泊まりしたりして、思い思いに暮らしていた。
「この箱、いりますか」
「いらないねえ」
「この箱、いりますか」
「いらんよ。欲しくない」
カアスとキインは〈荷物〉を渡すべき人を求めて、ひび割れから雑草の生えたアスファルトに止まる廃車から廃車へと渡り歩いていた。午前中一杯それを続けたが成果は無かった。腹が減ったので、二人は〈宇宙レストラン〉へと向かった。
「ようこそ宇宙時代へ! ここはあなたの宇宙ステーション。お好きな宇宙船へご搭乗になって少々お待ち下さい、あなたの乗務員がすぐに参ります!」
いつものひび割れた受付アナウンスを聞き流しながら、二人は塗装の剥げかけた赤い流線型の宇宙船の座席を選んで座った。それはあの〈遭遇〉の当事者である、エリック立花船長が乗り込んでいたアームストロング号をモデルにしていた。他の宇宙船にも薄汚れた姿をした住民たちが座って〈乗務員〉が来るのを待っていた。しばらくすると、店内に敷かれたレールに乗ってガタガタと揺れながら、青い制服のスチュワーデスを模した壊れかけの〈乗務員〉が二人のもとにやってきた。
二人ともステーキを注文した。それ以外の何かを注文すると、〈乗務員〉は左右に勢い良く震えだしてその日の動作を止めてしまうのだ。他にどんなメニューがあるのかは誰にもわからなかった。皆ステーキを注文しており、そしてキッチンの奥から運ばれてくるのは、よくわからないもので出来た黄土色をした直方体の塊だった。カアスもキインも、それ以外の食事を知らなかった。なんらかの代価を払ったこともなかった。
カアスは店内で唯一生き残っているモニターを見つめていた。そこでは繰り返し繰り返し、素晴らしい宇宙植民の夢が語られていた。ああ、はるか彼方の緑の星、そこではあなたは生まれ変わることができます……。キインは口を開いた。
「またあれ、見てるのか」
「うん」
「やっぱり宇宙行きたいのか」
「うん」
「無理なのはわかってるだろ」
「わかってるから。言わなくていい」
「すまん」
「そんなことはないぞ」
声を掛けてきたのは、分厚い眼鏡を掛けた、汚れた格好をした初老の男だった。
「人間その気になればなんでも出来る。また宇宙にだって行けるさ」
「あんた誰」
「〈博士〉と名乗っている。なぜなら博士だからだ。そこの彼にその〈荷物〉を依頼した男だよ」
「そう」
「それでどうかね。〈荷物〉を渡せそうな相手は見つかったかね」
「まだ」
「おかしいな。〈荷物〉の中は見たかね」
「見てない」
「真面目だな君は! 見てはいけないって言われたってことは、見ると必ず楽しいことがあるってことだぞ。どれ、ちょっと貸してごらん」
そう言うと〈博士〉はカアスから〈荷物〉をひったくり、その蓋を開けた。中にはたくさんの配線がのたうつ電子基板が入っており、そこからは赤いボタンがひとつ伸びていた。〈博士〉はカアスに言った。
「どうだね」
「どうだねって」
「押してみたくないか、君、ボタン」
「わかんない」
「どうしてだ」
「何のスイッチかわからないし」
「つまらない奴だな。まずは手に取ってご覧」
カアスは少し考えた。そしてボタンを手に取った。それはすべすべしていた。カアスはボタンに親指を沿わせた……。
「それを押すと落ちるぞ!」
〈博士〉は突然けたたましく笑うとそう言った。カアスは〈博士〉を見て言う。
「落ちるって」
「あの〈天の橋〉が落ちてくるのだ。爆発してな! ハハハハハ。本当だぞ!」
キインはカアスの腕を掴むと、座席から立ち上がり、歩き出した。カアスはキインに引きずられるようにして歩きながらも、まだこちらに向けて、もう二度と触れることの出来ない宇宙の世界とそれを嫌でも思い起こさせる〈天の橋〉に対しての憎しみを喚いている〈博士〉から目が離せなかった。
〈博士〉の叫び声は、しばらくカアスの耳から離れなかった。
その日の夜も、カアスは宇宙に飛び立つ夢を見た。
無重力に漂いながら、遠い向こうの恒星の輝きをその身に浴びる……宇宙服越しの視界を埋め尽くすのはずっと辿り着きたかった大きな緑の惑星の姿……そこではあなたは生まれ変わることができます……感動の涙で視界がゆがむ……あなたの新しい人生が待っているでしょう……降り立ったカアスをかつてその地に降り立った皆が歓迎してくれる……ここはあなたの宇宙ステーション……その星には死んだ両親の姿もあった……ご注文はステーキでよろしいですね……。
だが突然轟音が鳴り響く……傍に立っているのは〈博士〉の姿……(〈博士〉のけたたましい笑い声)……彼はあのボタンを押していた……それを押すと落ちるぞ……赤いボタンを押していた……本当だぞ!……逃げ惑う皆……(〈博士〉の笑い声)……両親はいなくなっていた……爆発してな!……緑の惑星は破壊されカアスは広大な宇宙に投げ飛ばされる……(〈博士〉の笑い声)……広い宇宙でカアスはひとりぼっちだった……そこではあなたは生まれ変わることができます……。
そしてカアスは、キインに肩を揺すられて目覚めた。真夜中だった。キインが言うにはカアスはひどくうなされていたという。夜は宇宙のように真っ暗だった。
金の無い彼らは、〈駐車場〉の脇の野原で眠っていた。カアスは眠れそうになかったので、一人で散歩に出かけた。
そして空を見た。〈天の橋〉は、ずっと変わらずに死んだまま夜空を貫いていた。
カアスは目をつぶると想像した。爆発する〈天の橋〉。その破片は、いくつもの流れ星になってこの星に降り注ぐだろう。それはきっととても美しいのだろう。それはこの星のどこでも見られるのだろう。
それはこの星の誰に、どんな影響を与えるのだろうか。
それを見た自分はどう思うのだろうか。
ボタンを押せば、自分もキインのようになれるのだろうか。
カアスは〈荷物〉の蓋を開けた。
そして赤いボタンを取り出した。
叫ぶ〈博士〉の姿が目に浮かんだ。
カアスは少し考えた。彼は考え続けた。
ああ、だけど。あれがある限り、自分はとても……。
そして、赤いボタンを押した。
少し待った。
何も起こらなかった。
もう一度ボタンを押した。
やはり何も起こらなかった。
何度も何度もボタンを押し続けた。
〈天の橋〉は、ずっと変わらずに夜空を貫いていた。
そしてカアスは〈荷物〉を傍に放り出すと笑いだした。彼は大きな声で笑っていた。泣きじゃくりながら笑っていた。〈天の橋〉が爆発しなくてよかった。〈天の橋〉はなんで爆発してくれなかったんだ。相反するふたつの感情が、カアスの中で爆発していた。
キインがカアスを心配して寄ってくる。カアスはキインの手を払ったが、キインはカアスのことをじっと見つめていた。
◆ ◆ ◆
やがてカアスもキインも大人になった。やはり空から迎えは来ず、彼らは宇宙に行くこともなく、〈天の橋〉は相変わらず死んだまま、青空を貫いていた。
「それ、まだ持ってるのか」
キインはカアスに聞いた。カアスの手には、赤いボタンが握られていた。カアスはキインのほうを見ると、にやりと笑いながら親指でボタンを押した。
〈天の橋〉は相変わらず死んだまま、青空を貫いていた。カアスはポケットに手を入れたまま、〈天の橋〉をじっと見上げていた。
先を歩くキインがカアスを呼ぶ。カアスはそれに答えると、ゆっくりと歩き出した。
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