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桑原茂一とスネークマンショー

桑原 茂一は、日本の音楽プロデューサー・コント作家・放送作家・雑誌編集者・選曲家である。
現在、プロデュースカンパニー「株式会社クラブキング」代表取締役。

幼少時、鉱石ラジオから聞こえてきたビートルズに衝撃を受け、ラジオと音楽にのめりこむ。
1969年、DJバー「キャッチボックス」を西麻布に開店。
音楽業界とのコネクションはこの頃からでき始める。
1973年、アメリカのカルチャー誌「ローリング・ストーン」日本版のスタッフとなり、製作の陣頭指揮を執る。
同誌では小林克也を「DJオブ・ザ・イヤー」に推し、小林との知遇を得る。
またファッション業界との交流も同誌における仕事から生まれていく。
1975年、「ローリング・ストーン日本版」がスタッフの不祥事により廃刊の憂き目に会うが、同時期、「BIGI」のファッションショーのための選曲、および「エドウイン」から店舗BGMの製作を依頼され、この時採用された「ウルフマン・ジャック・ショー」のパロディスタイルのアイデアが後の「スネークマンショー」の原点となっていく。
また1977年より、以後20年以上に渡って担当の桑原 茂一は、ライターとして「クワハラモイチ」「桑原茂一2」などを名乗る。
現在、プロデュースカンパニー「株式会社クラブキング」代表取締役。岡山県出身。

エドウインの店舗BGMが発端であったスネークマンショーは、1976年からラジオ大阪での放送が開始された。
当初の正式な番組名は『エドウイン・ロックン・ロール・ショー』で、毎週月〜金曜日の15分番組であった。
タイトル名から分かるとおり、当初は純粋な音楽番組で、小林のトークは曲を盛り上げる脇役だった。
土台はあくまで音楽番組にあった。
桑原と小林が送る、当時あまり紹介されてこなかったジャンルの楽曲やミュージシャンをさらりとかつ熱烈に推すセンスが「スネークマン・ショー」の体臭を決定づけていた。
すでに業界の大物になりつつあった小林であったが、元祖ウルフマンに倣い、あえてその名を明かさず、スネークマンという謎のキャラクターで押し通すことを決めていた。

ラジオ大阪1局で開始した「スネークマン・ショー」であったが、次第に関西で話題となり、ほどなく東海ラジオ放送とラジオ関東でも放送を開始した。
桑原と小林は内容の幅を広げようと画策し、スネークマンは英語しか話さないという設定だったため、日本語担当が必要になった。
小林がラジオ番組を収録していたエフエム東京のスタジオの隣でコマーシャルの録音をしていた共演経験のある伊武雅之(現・伊武雅刀)を見つけ、小林が「俺さ、今、こういうことやってるんだけど、一緒にやらない?」と誘ったことがきっかけで伊武が加入する。
俳優の伊武は、声の良さから当時『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』のデスラー総統役や資生堂・MG5のCMなど、少しずつ声優としての活動を始めていた時期であった。
伊武が加わり、スネークマンのDJのみであったスネークマン・ショーは、曲紹介の合間に小林と伊武とのショート・コントを織り交ぜるという形になり、小林は咲坂 守(さきさか まもる)、伊武は畠山 桃内(はたけやま ももない)といったキャラクターを演じた。
芸域の広い伊武の参加でコントは厚みを増し、毒気やラジカルさに向かっていくことになる。
特に1977年頃に興ったパンク・ムーブメントの到来は、スタート当初の曲のつなぎのためのシンプルなジョークという世界を大きく逸脱していく。
スネークマン・ショーがウルフマン・ジャックや海外のコントの翻案ではない、オリジナルな世界を持つラジオ・ショーに脱皮したのはパンクの衝撃から来たものであった。
しかし1978年3月、エドウインのスネークマン・ショー担当者が退社したのを機に、エドウインがスポンサーを降りることになり番組終了が決定した。

当時、スネークマン・ショーは業界人の秘かなお気に入り番組だったが、そのひとりである杉山恒太郎(電通第二クリエーティブ局に所属)が、小林から番組終了の話を聞いて、それはもったいないと、広告を担当していた小学館の『GORO』がスポンサーになっていた番組が改編期で、スネークマン・ショーを仲介してその番組に移籍が決まる。
タイトルまでそのままというわけにはいかず、ラジオ関東での番組終了から3日後の1978年4月3日(オフィシャルBOOKに従う)の『生島ヒロシの夜はともだち おーい! きいてるかい』(TBSラジオ)のコーナーとして、タイトルも「それゆけスネークマン」となり15分番組(22:45 - 23:00)として生き延びる。

スネークマン・ショーはこの時代多くのCMを手掛けている。
1977年 - 1978年頃のサンヨーのラジカセ「ステレオ・レック9500」のラジオCM(コピー:糸井重里)、1979年、ソニー・ウォークマンラジオCM(コピー:仲畑貴志)、同年映画『さらば青春の光』ラジオCMなど。
また、同年に手がけたトヨタ1300スターレットラジオCMとアサヒミニ樽テレビCMは、いずれもACC(全日本シーエム放送連盟)CMフェスティバルで入賞している。

ローカル放送から東京のキー局に移ったことでスネークマン・ショーの人気は全国区のものとなる。
コントはますますパワーアップし、下ネタのお下劣化はいっそう著しく、風刺ネタもふんだんに採り入れられていった。
小林が咲坂守、伊武が畠山桃内を名乗り、フィクションをいいことにラジオ史上稀にみる破天荒な放送がぶちまけられていった。
今までラジオでなかったことをやろうと多くのタブーに挑戦した。
ラジオではどもってはいけないが、日本語はダメだけど英語ならいいだろうであるとか、1979年には、放送業界のタブーに触れたコント「あなたのラジオは30秒後に爆発します」を放送、NHK番組終了時の『君が代』を繰返し繰返し聞かせるというパロディでは、右翼から抗議の電話で局側としても対応に苦慮したといわれる。
また当時はほぼタブーとされていた同性愛者に関するコーナーを作ったり、麻薬ネタ、反権力、社会的批判を込めたコント、過激な下ネタなどが社内で問題となる。放送禁止になることもあり、こうした過激さが番組の寿命を縮める。

ラジオ番組としてのスネークマン・ショー終焉の悲劇は、最初は朗報としてもたらされた。
「ローリング・ストーン日本版」時代から多くのミュージシャンと交流があった桑原に、1980年当時若者に絶大な人気があったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の細野晴臣と高橋幸宏が、まとまったアルバムを制作する時間が取れない忙しさから、ギャグと音楽で構成されるスネークマン・ショー形式のミニ・アルバムの制作を決めた際、スネークマン・ショーにコントの提供を申し出て、スネークマン・ショーはYMOとの全面的なコラボレーションを行う。
このアルバムの制作中にYMOからもう一つの依頼を受けた。
1980年4月23日に日本武道館で行う小学館の雑誌「写楽」創刊イベント『写楽祭』の演出であった。
意気に感じた桑原はスネークマン・ショー的なシュールで不思議な余興を演じた後、最後にYMOのコンサートを行うという、それまでの番組で繰り返してきたコンセプトを再現したが、打合せがあまり行われないまま本番となった。
元々、通常のコンサート形式ではなく、ギャグが主体のイベントだということが1万人の観客に事前に伝わっておらず、トラブル続発の上、いつまでたってもYMOのコンサートが始まらないことで観客が暴動を起こし、新雑誌創刊のセレモニーが早々中止され、スポンサーの小学館は怒り心頭であった。
すでに大スターであるYMOを怒るわけにもいかず、TBS上層部の怒りの矛先はスネークマン・ショーに向けられ、同番組は1980年6月いっぱいでいきなり終了する。
先鋭化し続けるスネークマン・ショーの世界観を危惧していた局や、スポンサー、放送関係者はここぞとばかり責任をスネークマン・ショーに転嫁したという。

その直後、『サウンドストリート』(NHK-FM)で桑原をゲストに迎え特集が放送されたが、使用されたコントはTBSの放送済音源でレコード化されていないものがほとんどだった。

皮肉にも、前述のイベント前に決まっていたYMOのアルバム『増殖』(1980年6月5日発売)への参加により、スネークマン・ショーはラジオ時代よりもずっと多くのファンをつかむことになる。本アルバムはオリコンチャート初登場1位を記録する大ヒットになり、それまでスネークマン・ショーを知らなかった世代を直撃し、スネークマン・ショーは本格的なブレイクとなった。

アルファレコードからスネークマン・ショー単独でアルバムを出さないかとオファーを受け、1981年2月に細野晴臣を共同プロデューサーに迎えたファースト・アルバム『SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー』(帯に大書きされたコピーから通称『急いで口で吸え』」を発売、関係者の誰も予想していなかったほどの大ヒットを記録する。
同年にセカンド・アルバムの『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』を発売。

私は高校1年生の時に先輩の家で初めてスネークマンショーを聴いた。
面白さと淫靡な表現、そして間に入る音楽の新鮮さの虜となったのです。
以来彼らの動向に注目していました。

本作の発売前から、3人それぞれが次のステップに進みたいと、セカンドにしてスネークマン・ショー最後のアルバムと申し合わせていた。
同アルバムも大ヒットし、スネークマン・ショー人気は絶頂期を迎えたが、3人の意見が食い違うことも多くなり、小林が脱退する。
しかしスネークマン・ショーのあまりの反響の良さから、さらなるリリースを求めるファンの声によって番外編的に急遽『スネークマンショー海賊盤』を発売。
海賊盤としてカセットのみのリリースであった(後年、LPとCDでも発売)。
カセットならではの意匠ということでコンドームの箱そっくりのパッケージで発売して物議を醸した。
1983年、小林不参加で『ピテカントロプスの逆襲』をリリース。その後、編集版などが国内外でリリースされたが、スネークマン・ショーは自然消滅した。

桑原茂一は1982年3月、原宿に「ピテカントロプス・エレクトス」開店、代表に就任。
同店では、盟友中西俊夫率いるMELON、東京ブラボー、ショコラータ、ミュート・ビート、坂本龍一、高橋悠治などのライブ、高木完、藤原ヒロシによるDJプレイが披露され、また、ジョン・ライドン、クラウス・ノミ、キース・ヘリング、ジャン・ミッシェル・バスキア、ナム・ジュン・パイク、デヴィッド・バーンをはじめ海外からも数々のミュージシャン・アーティストが訪れるなど、その存在は以後の日本のストリート・カウンターカルチャーに多大な影響を与えることになる。
同年、ゲストミュージシャンとして高橋幸宏、細野晴臣、土屋昌巳、パーシー・ジョーンズを迎え製作されたMELONの最初のアルバム「Do You Like Japan?」をプロデュースした。

1986年、日本音楽選曲家協会(略称:音選協)を設立、発起人代表を務める。
1987年、クラブキング設立。
1988年、フリーペーパー「dictionary」を創刊。90年代以降も、「RADIO HEAVEN」、「ブルー・フィルム」などの活動のほか、TBSにて放送された「大帝国劇場」のスーパーバイズ、その他、CD製作、イベントオーガナイズ、podcasting、ファッションショーの選曲・音楽監督、ラジオ・テレビ番組制作、映画音楽など、さまざまな手段で独自のコントや音楽・文化を発信し続けている。

また、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を機に発行された坂本龍一とML「suspeace」が監修する「非戦」に参加、同じく坂本の呼びかけによる「Stop Rokkasho」およびmore treesプロジェクトに参加するなど、社会問題や環境問題などへの発言も積極的に行っている。

2010年1月5日「桑原茂一のPIRATE RADIO」(InterFM)放送開始。
また2010年7月、東京都水道局出張所跡地を利用し、"学ぶを遊ぶ - 働く大人が学ぶための「学校」= ART SCHOOL"のコンセプトのもと、さまざまな人材の交流と情報発信を目指して「ディクショナリー倶楽部 ART SCHOOL」を開校。
校長として茂木健一郎、またリリーフランキー、萱野稔人、ヒロ杉山、しりあがり寿、近田春夫、野崎良太、高橋健太郎など、各界著名人を講師陣として迎える。

2011年にスネークマンショーは衛星テレビ局WOWOWの特別番組で復活した。
番組タイトルは『R60 スネークマンショー』。メンバーが既に還暦を迎えたことにより、タイトルに『R60』が冠された。
テーマは『老いと死』なのだが、伊武曰く「50歳以下は見てはいけない番組にしようかとも思った」、「もともと3人で作ったときにはまったく身近な題材を使っていた。
『老いと死』というテーマは、この年になったらそういうものが出てくるだけの話」などと語った。
2011年4月9日から4月30日まで、全4回にわたって土曜日深夜に放送された。

2013年、夢の島公園陸上競技場で開催されたワールド・ハピネスに伊武と小林がスネークマン・ショーとして出演。
「シンナーに気をつけろ!」、「咲坂と桃内の今夜はごちそうさま」をアドリブで、またワールド・ハピネス出演者と共に「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」を披露した。

スネークマンショーの作品を聴いたことがない方は是非今夜体験してみてください。

いつもより相当長くなりました。
ご容赦ください。
好きなんです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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