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彼女とあいぼう

5月のよく晴れた日

大きな影と、小さな影が2つ、緑のトンネルをのぼってきます。

かに山で遊んだ帰りでしょうか。

「あれ、ねえ、ぱぱ。声がするよ」

「本当だ。木から降りられなくなったんだね」

大きな影がまわりの竹を伝い、するすると木を登っていきます。
あっという間に声がするところへ辿り着き、声の主を助けてあげました。

小さな影たちは、思いがけない素敵な出会いにたいそう喜びました。



大きな方の小さな影は、10歳の少女でした。

彼女はいつか、魔女になりたいと思っていました。
魔法を使って空を飛んだり、素敵なものを作ったり、魔女の友だちとお茶会をしたり。


でも魔女には、あいぼうが必要です。ちょっと不思議でわくわくする物語は、きっとあいぼうとの出会いから始まるのです。

声の主は、彼女の“あいぼう”になりました。

彼女は自分の腕の中にあいぼうがいるのがうれしくてうれしくて、ぎゅっと抱きしめました。
4つ年下の妹はぎゅっと抱きしめすぎたので、少しひっかかれてしまいました。

魔女と一緒にいるあいぼうは、いつだって黒と決まっています。でも、彼女の新しいあいぼうはキジトラ模様。

彼女はうーんと首をひねりましたが、そこには目をつむることにしました。




一緒に住み始めたばかりのころ、彼女は茶色いものをよくあいぼうと見間違えました。

びくっとして、もう一度よく見ると、ただの茶色い段ボール。なんてことがよく起こりました。

彼女の母親と父親は、あいぼうに家の中だけで暮らしてほしいと考えました。でもあいぼうは外が大好きで、隙を見てすぐ出かけようと試みました。


換気のために窓を開けたとき、誰かが出かけるためにドアを開けた一瞬の間をついて、あいぼうは外に出てしまいます。
連れ戻しても同じことでした。自由奔放なのです。

ついに彼女の母親と父親はあきらめて、あいぼうは家と外を自由に行き来する権利を獲得ました。




あいぼうはたくさん食べて、たくさん眠って、みるみるうちに大きくなりました。
どんどん、どんどん大きくなりました。

あいぼうは食べるのが好きだから、もっともっと食べました。
どんどん、どんどん大きくなって、 とても強いくなりました。


彼女もたくさん食べて、たくさん眠って、どんどん、どんどん背が伸びていきました。速く走れるようになって、賢くなって、楽器を演奏できるようになりました。友だちもたくさんできました。


彼女はあいぼうとずっと一緒にいたかったけれど、学校に行かなくてはなりませんでした。
あいぼうも彼女とずっと一緒にいたかったけれど、狩りをしたり、友だち付き合いをしたりしなくてはなりませんでした。

つまり彼女とあいぼうは、ずっと一緒にいることはできませんでした。本当は一緒にいたかったけれど、離れ離れのときもありました。
だから一緒にいられる時間は、2人でたくさん遊び、たくさん話しました。




あいぼうは、誰にでもやさしいわけではありません。
あいぼうがあまりに喧嘩っぱやいから、近くに住む仲間たちは後ずさりし、小さきものたちは怯えました。

ままの誕生日には、枕元にカマキリが置いてあったこともありました。
家族はあきれたけれど、彼女は少しだけ誇らしく思いました。

あいぼうは、彼女にとてもやさしくしてくれました。

彼女が鍵を忘れて家の前でめそめそしていたとき
そっと隣にやって来て、一緒に彼女の母親が帰って来るのを待ちました。


彼女に悲しいことがあってしくしくしていたとき
布団の中にもぐりこんで、いっしょに寝てくれることもありました。
あいぼうがとてもあったかいので、彼女はすぐ眠りに落ちることができました。




彼女は中学生になって、高校生になりました。

学校の帰り道は、おうちの近くの急な坂を登ります。そして角を曲がると、どこからかいつもの声がします。あいぼうが迎えに来たのです。

彼女が出かけるために急な坂を下るとき、あいぼうも一緒について行きます。でも坂の下には車が走る道路があって、あいぼうは道路を渡れません。
出かけるときは、ここでお別れです。

あいぼうは相変わらず、かに山を走り回っているときがありました。
彼女は「また木に登って降りられなくならないかしら」と少し心配したけれど、あいぼうはもう立派な大人でした。




彼女が大学生になったある日

あいぼうが何日も、何日も、帰ってこないことがありました。

彼女は不安で、不安で、涙が出そうでした。



どこか1人で遠いところに行ってしまったんじゃないか。どこかで倒れていたとして、どうしたら助けられるだろう。



さみしくないだろうか。

さみしいのは私だけかしら 。

数日経つとそんな心配をよそに、少し汚れた格好で帰ってきました。
彼女はあいぼうに「もう勝手にどこかへ行かないでね」と言いました。

彼女は大きくなるにつれて、命は大切だということを信じるようになりました。だからあいぼうがたくさんの命を奪っていることを想って、心を痛めるようになりました。




彼女が卒業研究を進めていた春のころ

最近のあいぼうは、舌をしまわず、ずっと出しっぱなしにしています。いつ見ても、鼻の下からピンクの舌がちょこっとのぞいています。

父親は「なんだよ舌なんか出して、かわいこぶっちゃって」と軽口をたたきましたが、心配して病院へ連れて行きました。


あいぼうの口の中には、なにか悪いものがあると分かりました。

なにか悪いものがあいぼうの口の中で悪さをして、あいぼうは痛くて、だんだん食べ物が食べられなくなるだろうと言われました。



「そのあと、どうなっていくの?」
彼女はたずねました。

そのままおむかえが来るのだ
と言われました。




あいぼうはだんだん、食べられる物が減っていきました。

硬い食べ物は食べられなくなりました。缶詰も食べられなくなって、特にやわらかい缶詰を食べるようになりました。

あいぼうの口の右側の方は、だんだんふくらんで、膿んでいきました。

よだれが出て、でも自分で自分の体を手入れできなくて、あんなに美しかった毛並みはカピカピになりました。

それでも食べるのが大好きなあいぼうは、高い缶詰をもりもり食べました。食べ終わると、「もっと食べたい」と言いました。


またある日は、彼女のベッドの中に入ろうとしました。
彼女はあいぼうをそっと中から出して、布団の上に寝かせました。


あいぼうは不満そうにないて、部屋を出ていきました。




その年の冬、彼女は家を出ました。

引越しの日

彼女は、もう二度とあいぼうに会えないかもしれないと思いました。
でもあいぼうは、あまりよく分かっていない様子でした。


彼女はさみしかったけれど、「またね」と伝えて家を出ました。


引越してしまえば、日に日に弱るあいぼうを見ることはありません。
元気かな、大丈夫だろうかと心配する日はあっても、弱っていく姿を見ることはありません。




2か月ほどたって、久しぶりに彼女は家へ帰りました。

あいぼうの顔は原型がわからないくらいにふくらんでいました。でも彼女が近づいてきたのを見て、なきました。

あいぼうは、動物園のふれあいコーナーのにおいがしました。

あいぼうだけじゃなく家中が、ふれあいコーナーのにおいでした。
あいぼうが台所や食卓に登らないよう、小さな柵が張られていました。


彼女は、この世界から「あなた」が消えていく途中を、きちんと見たことがありませんでした。

彼女のおじいさんの最期は病院だったし、飼っていたメダカやカマキリやコオロギが世界から消えてしまうのは一瞬の出来事でした。

どれも悲しかったけれど、消えていく途中をきちんと見ていたわけではありません。


この世界から「あなた」が消える途中というのは、こんなにも美しくないものなのですね。
みにくくて、くさくて、気性は荒くて。
でも、こんなにも愛おしいのですね。

そう思って、彼女はあいぼうを抱きしめました。
隣にいた彼女の妹はそれを見て、「もう抱っこする人なんていないよ」と言いました。

彼女は切なくて、さらに強く抱きしめました。

弱っていくあいぼうと日々を生きている母親や父親や妹に、心の中でたくさん謝り、ありがたく思いました。




あなたは、花を育てたことがあるでしょうか。
買ってきた花を花瓶にいれて、日々眺めた経験でもかまいません。

この世界から「あなた」が消えるというのは、花が枯れていく様に少しだけ似ています。

茎の下の方が茶色くなって臭くなったり、葉っぱの一部がパリパリに乾いてしまったり。
水や肥料をあげると少しだけ持ち直したりするのだけれど、再びふと見てみると、以前よりも弱々しい姿になっています。

そして頭を垂れて、ぐったりと、ぐったりと、息を引き取るのです。

美しくはないけれど、私のそばにいてくれてありがとうという愛おしさが、みぞおちのあたりからむくむく湧いてきます。




5月のよく晴れた日

彼女はまた、家を訪れました。母親と父親が一晩家をあけるので、妹といっしょにおるすばんを頼まれたのです。


1か月ぶりに家のドアを開けると、あいぼうの姿はありませんでした。

階段をのぼって、おそるおそるあいぼうの名前を呼びました。
奥の方からよろよろと、茶色いものが姿を現しました。

前のように話しかけてはくれません。
いや、話そうとしているのだけれど、声がうまく出せないのです。

顔はさらに腫れあがって、なんだか虎のようでした。でも足は、骨の位置が分かるほどにやせ細っています。

もう外へは出られなくなっていました。

家の中にたくさん置かれていた小さな柵も、今はもうありません。机の上にのぼる力がないのだと分かりました。


ごはんは、介護食でした。

指で少しずつあげてみましたが、まったく食べません。

でもごはんには痛め止めの薬が入っているから、彼女は、絶対食べてほしいと思いました。痛い思いをして眠れないなんてことがあったら悲しすぎる。

一度目にいれたごはんの量が多すぎたので、すべて捨てました。
二度目にいれたごはんもまだ多すぎたので、すべて捨てました。

三度目は、ほんの少しだけのごはんに大量の薬を混ぜて、やっとのことで口と思しきところに押し込みました。

あいぼうは嫌がって、弱々しく彼女の手を押さえました。

彼女はどうしても食べてほしくて、食べきれなかったご飯は、口と思しきところのまわりに塗りました。なめてくれるかもしれないから。

そのあとあいぼうは、すやすやと眠りにつきました。

彼女は自分の気持ちがよくわからなくて、とにかく今日が早く終わってほしくて、すぐベッドに入りました。



朝になりました。

彼女は、妹の布団の上で寝ていたあいぼうに、薬をあげようと思いました。

でもあいぼうが動いているように見えなくて、何度も、何度も、何度も、何度も、名前を呼びました。
少し冷たく感じました。

かすかに反応があったので、昨日と同じように、ほとんど薬の食べ物を口と思しきところのまわりに塗りました。

そしてこぼれたところを軽く拭いて、ゆっくりとあいぼうをなでました。
今度こそ、お別れのときかもしれません。


あなたは、幸せだったでしょうか
彼女は思いました。


わたしは、あなたがいてくれて幸せだった。
わたしは今も空を飛べないし、キジトラ模様のあなたも魔女のあいぼうにはなれなかった。
10歳のわたしが描いていた結末とは、少しだけ違ったね。

でもあなたとわたしの間には、たくさんの思い出が、物語ができた。


あいぼうを失うのは少しさみしいけれど
誰にでも平等におむかえは来るものだから

きっとあなたは光になって
かに山に帰っていくのだろうと思います

いやもしかしたら、もともとあなたは
かに山の精霊だったのかも

少しの間だけわたしの前に現れて
大人になるのを見ていてくれたのかもしれない

そんな想像は、わたしにとって都合がよすぎるかしら。


「またね」が、彼女の口をついて出ました。
そして彼女は、家を出ました。


また、かに山に会いに行くね


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