見出し画像

結局それは己のものでしかないから

説明が多めである。


ひとに言われるまで意識していなかったけれど、現在では話している最中に自分でも思う。



わたしが見ている赤は、相手の見ている赤と全く同じ色味なのか?
わたしの認識は相手のものとズレがあるのではないか?と不安になることがあった。
結構、頻繁に。


各々が内に持つものさしの尺度が違う、と悟ったのはいつだったか。
他者、という存在を理解すると同時に
他人だということを突き付けられた瞬間でもあった。


脳を共有出来ないからこそ、理解の差異によって生ずる面白味ももちろんある。
何かを作る時や業務を遂行しているときに、理解のはき違えがあると
厄介なことになることもあるのが事実。

それを避けるためにきちんと伝えたい、理解してもらいたいという気持ちが溢れ、説明が多くなる。


それをネガティブに捉えるひともいるだろう。
自分自身でも、そんな自分を否定的な目線で視たこともあった。

でも結局、そんなものはひとそれぞれの解釈だし自由意志だと思うように至った。
ひとは他人、自分は自分、それぞれ各々の考えのもと生きているし、そう思うことは自由である、と。


この考え方が、自分が苦手とする人をどう捉えるかに繋がることに気が付いたのはつい最近のことである。


それぞれの世界はパラレルで、わたしが見ているのはわたしの世界。
差異が生まれて然り。
その中でいかに繋がり合うか、共有するかも自分次第で変わる。

だとしたら、わたしはわたしのものさしを握りしめて、自身の感覚と気持ちとを信用して邁進するのみである。



誰かの赤がわたしの赤と違うならどう違うのかを知りたい。
わたしの赤がどんなものなのかを表現したい。


そう思う気持ちを、この先も大切に生きていきたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?