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【小説】せきれいの影|1話

 二〇六二年の冬のはじめ、三十一歳の誕生日を迎えた。

 かといって祝い事をするでもなく、いつものように残業をして、独り暮らしの安アパートに帰ってきたころには夜の九時近くになっていた。

 今日買ってきたのはビールの小瓶がふたつだけ。

 小瓶の栓をふたつとも開ける。

恵梨香えりか、お前より年上になったぞ」
 
 死んだ女房の遺影の前に、ビールを一本手向けた。

「乾杯」

 小瓶を突き合わせて、くいっと飲む。
 
 俺の安月給だとビールなんてそうそう買えるものではない。
 だいいち、俺は清酒が好きなので、飲みの席でもグラスで一杯開けたら清酒に切り替えてしまう。
 
 生前の恵梨香はといえば、普段こそ煙草ばかりで酒を飲まなかったが、給料日に買うビールの大瓶を俺と分け合って飲むのを楽しみにしていた。
 五十ヱンの煙草を旨そうに吸いながら、ガンになる前に煙草をやめたほうがいいかもね、と口にしていたのを覚えている。

 結局、あいつはガンにも何にもならなかった。
 三十歳のとき、真冬の冬道で転んで頭を強く打ち付け、数日後、硬膜下出血で死んだ。
 
 何がガンだ、何が健康だ。

 あの日から丸一年は、やけっぱちになって狂ったように仕事に打ちこみ、独りでいるときは酒を浴びた。
 心の整理も付き、ようやく恵梨香の遺影をまともに見られるようになったころ、今度は恐ろしいほどの虚無感に苛まれた。
 残りの人生がただの余生に思えた、というより、未だにその感覚はある。

 その虚ろな気持ちを埋めてくれるのが、コンピュータだった。

 手元のビールを飲み干し、恵梨香からの「おさがり」のビールの小瓶を片手に、さっそくコンピュータを起動させた。
 夏暑く冬寒いこのアパートの一室にコンピュータは似つかわしくなかった。
 だいいち、一昔前なら、寒さか暑さか、どちらかで致命的な故障をしていたところだ。

 いまもちょくちょく故障はするが、耐久性は格段に上がった。
 パーツがひとつぐらい壊れても、サッポロベツに一軒だけあるショップでどうにかなった。

 しかし、無理な買い物をしたな。
 蓄えを崩し、ボーナスと合わせてなんとか組み立てたのがこの愛機だ。

 本当は、将来生まれてくるはずの子供のためにと、共働きして蓄えた貯金だ。
 さすがに恵梨香の稼ぎにまで手を付けられなかったので俺の稼ぎ分を割り出した。

 子供ができなかったのは、晩婚が影響したのか、恵梨香が不妊体質だったのか、いまとなっては知るよしもない。
 俺が二十五歳、恵梨香が二十六歳のときに結婚したので、いずれにせよ子だくさんは望めなかっただろう。

 それにしても、コンピュータはどうしてこうも夢中になれるんだろう。
 
 俺は初期のコンピュータに学生時代から触れている。
 プログラムのひとつでも覚えてコンピュータエンジニアとして食っていきたい気持ちは山々だ。
 プログラミングの才能にも勘にも恵まれていないのでそちらの道は諦めるしかなかった。

 とはいえ、いまはそこそこの企業で経理職に就いている。
 安月給とはいえ年々昇給しているし、このままつつがなくいけば定年まで勤めあげられるだろう。

 仕事は毎日単調で退屈だが、コンピュータ、それにオンラインでのやり取りがあればそれだけでよかった。
 
 従兄の芳次よしつぐの気持ちが、いまならはっきりわかる。
 コンピューティアンと独身は相性がいいのだ。

――俺、上司や同僚にコンピュータを進めたいな
――彼らは揃いも揃って「毎日が同じことの繰り返し」っていうからな
――居酒屋で一杯ひっかけながら仕事の愚痴をこぼしあって、休みは好きでもないゴルフに出かけてさ
――そりゃ退屈するって HAHAHA
 

 今日の更新では、酔っぱらった頭で愚にもつかないことを書いた。
 自分のスペースを更新したあとは、つながりがあるスペースを回って、コメントを書いたり返されたりして、日付が変わるころ布団に倒れこむ。

 いつもそんな調子だ。

 ムロアキのスペースをウォッチする暗い趣味からは卒業した。
 そもそも、あいつの書くことはチンプンカンプンで、本当に大学を出たのか本気で疑う時があった。

 もっとも、コネで入学したらしいが。

 それに、近々、いたって健全な楽しみが待っていた。

 明日、いや、日付が変わって今日、誠一の独立起業祝いをすることになっていた。

 起業すると聞いたときは、びっくりしたと同時に納得もした。
 この男ならやりそうなものだし、実際やっていけるだろう、と。

 大勝負に打って出て、業績がどうなるかはわからない。
 だが、ちょっとやそっとのことでへこたれない精神力は武器になるはずだ。
 
 気が付くと深夜一時を過ぎようとしていた。 
 抗いがたい眠気に襲われて、文字通り瞼がくっつきそうになる。

 こんな調子なので、毎晩気絶するように眠りにつく。

 その晩も例にもれず、六時半までたっぷり寝てやるつもりでいた。


 だが、翌朝、珍しくトイレに起きてしまった。
 目覚まし時計が鳴るまでまだ一時間もあった。

 二度寝できればいいんだけどな。

 冷え切った布団にもぐりかけたときだった。

 外から「わあ」という間の抜けた声とともに、鈍い大きな音がした。

 恵梨香が頭を打ち付けたあの日を思い出した。
 
 どくん、と心臓が脈打つ。
 
 大丈夫、大丈夫、何事もない。
 頭では分かっていたが、心がいうことを聞かなかった。

 急いで着替えて、コートのポケットに煙草とライターがあるのを確認して、一服するていを装って玄関ドアを開けた。