流れが分かる日本史⑯

本日は、南北朝の動乱から室町幕府の創設についてお話しさせて頂きます。京都に戻った足利尊氏は、奈良県吉野に逃げていった後醍醐天皇に変わり、持明院統の光明天皇をたて、征夷大将軍に任命してもらい、室町幕府が創設されます。しかし、後醍醐天皇は皇位の正当性を主張し、南北朝時代となります。

南北朝の時代は3代将軍足利義満の時代まで約半世紀続きます。二人の天皇が並び立つ時代が50年以上も続いたのです。

その背景としては、観応の擾乱と呼ばれる室町幕府内部の対立がありました。室町幕府は創立当初、幕府の方向性をめぐって、対立が生じ、大きな騒乱へと発展してしまったのです。また、南朝に関しても、有力武将が相次いで戦死してしまい、北朝を凌駕する勢力とはなり得なかったのでした。

そして、3代将軍足利義満の頃、幕府の支配が固まると、義満の絶対的な権力で南朝の天皇が和睦に応じ、三種の神器を返還したことで、南北朝が合一します。

足利義満の権限は絶大でした。観応の擾乱を背景に、守護大名に大きな権限を与えていましたが、有力守護大名を討伐し、その勢力を削減することで、幕府の支配体制を磐石にし、朝廷が持っていた税の徴収権なども吸収し、室町幕府は全国統一政権として君臨したのでした。そして、義満は太政大臣となり、日本国王として中国の冊封を受け、日明貿易も開始したのです。また、義満は禅宗、特に臨済宗を保護し、臨済宗の僧を政治や外交顧問に起用するとともに、五山の制度を整え、統制しました。

このように、3代将軍義満の時代、幕府の権力は磐石なものとなりましたが、内部では不安要素をいくつか抱えていました。一つは、守護大名の問題です。先ほど話したように、この時代は守護大名が権力を強化し、各国を統治する守護領国制が展開します。これは、将軍権力が磐石な時代は問題ありませんが、将軍の権力低下にともない、守護大名の自立傾向を生む事になります。つまり将軍に求心力がなくなると、守護大名は実力で領国を守る必要が出てくるため、戦国時代が訪れるのです。

また、関東の統治機関である鎌倉府も関東東北の支配を任され、大きな権限を与えられたため、鎌倉府の長官鎌倉公方は将軍と対立することもしばしばありました。そして、6代将軍の時代に、永享の乱という形で、それが現実化するのです。この事件は6代将軍義教が鎌倉公方足利持氏を討伐することで、終止符を打ちますが、その後関東は鎌倉公方やそれを支える関東管領が分裂したり、各地の武士が流動的に有利な側につくことで、先の見えない戦乱の時代へ突入することになります。

本日は、以上とします。次回は室町時代後半から戦国時代に入っていきたいと思います。よろしくお願いします。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。