葦の沼
西へ向かう道
かつては細い流れがあったのだろう 谷へ下る階段の袂には 消えたその流れをよく見知っていたかの 黒松の古木があった
南 の陽射しを受け 若い針葉を伸ばしはじめたばかりの葉叢を幾つも蓄え 自身の翳とともに 些か重たげな枝を道まで垂らし 葉叢の懐には いつも雉 鳩の仄暗い声をふるわせていた けれど黒松を北面から圧倒する 中世の城壁かと想われるほどの 高く堅牢な石積の壁に反射して それは より寂しく響く のだった
石積の壁に護られた館の奥の方へ ふと記憶の方へ振り向かされるように 番の尾長が遁れてゆくのを想い出すだろう そして歩みの度に遠離かる歌に聴き入りながら いまも 冷えた左手を温めてくれる 伝わるものの確かさに安息して 溜息を吐く
この道の静けさに設えられた 幾つもの家屋敷は 記憶を確かにする度に消え 最早この道が想い出せなくなるまで 悉く消失してしまうのだろうと 記憶の層をさやがせる
たゞ十字架を南に晒した礼拝堂の白い塔ばかりは 遠い跫音の連なりを惹き留めて 何も変わらない空の青さを気づかせてくれる
花 冷えした風に肌寒さは隠せなかったけれども まだ柔らかい午后の陽射しが心地佳かった 道の突き当りまで来て 駅前の病院へ向かうには右に折れるが 懐中時計の文字盤を見ると まだ半時くらいは間があったから 些か遠回りでも 蛇崩川の桜並木を 漫ろに愉しむのも悪くはないと 突き当りを左の坂に下りた
少しばかり坂を下って道を逸れ 杉や白樫の樹木に覆われた駒繋の社の 鬼門に開く裏鳥居を潜ると 境内は 春にまだ芽吹く前の樹木らの冬の葉叢を残した枝々が 風を透いて 雪のような木漏れ陽とともに 静けさを歩石に落していた 社殿もコンクリートに そしてその両脇の稲荷も もう随分以前に建替えられたのに いまだ白々しく たゞ樹木たちが吐く昔ながらの大気に頼って 社らしい境内の聖別を支えてるようだった
その静謐さに深い呼吸を促されたのか 過呼吸をしたような軽い目眩に襲われた とそのとき ふと彼の声を 喘息で細くなった彼の声を聴いたように想った
─── そう 数年に一度(あるいは数十年に一度) 彼に会いに行くのだった いつも気紛れのように 約束していたかのように
社殿正面に設えられた石段を下りると 児童公園があるが 子供たちの姿もない 門前の駄菓子屋も 遠の昔に潰れてしまった そして裸の大銀杏に護られた夢違観音の門を過ぎて 左に折れ蛇崩の五差路を過ぎれば もう蛇崩川の桜並木が見える
橋 の袂に掛ると意外に静かだけれど 川の両岸に植えられた桜の下には 既に花見たちがあちらこちらに輪をつくっていて 満開になったば かりだと想っていた花は もう川面に零れて雲母模様を漉いていた 穏やかな けれど花はいつもより蒼白く光を含み ぼんやりと流れの上に浮んで見えて 花見たちも皆一様に 宙宇に吊したような白い面差しを花明りに翳していた
蛇崩川の桜並木を過ぎ 暫く行ったところに『葦の沼』と彼が呼 んでいた湿地帯がある この辺りには他にも『蛇沼』と呼ばれていた湿地帯があったが 数十年前に高層住宅が建てられ その後 自殺志願者を口寄せる場所となった けれども『葦の沼』ばかりは開発を逃れて 屋敷街の直中にぽつねんと放置 されたまゝの 如何にも不可思議な場所となっていた
昔ながらの地主の所有であろう『葦の沼』は その四方を家屋敷に囲まれていて 辺り 一画のどの道を通っても見ることができない けれども 彼の家 に行くには『葦の沼』を抜けて行くしかなく それは 余所様の軒裏の暗い露路を失敬し 幾らか迷路のようなその露路露路を抜けたところ 葦の群が支えてい るような中空の真下に 忽然と現れるのだった
子供の時分なら 余所様の軒裏や庭先を猫のように我物顔で通り抜け たとえ住人に見付かろ うとも「こんにちは」とだけで 何を咎められることもなかろうが いまではそうもゆかない ─── たゞ不思議なことに 子供の時分からこれまで この不法侵入を一度たりとも住人の誰それに見咎められたことも そもそもこの『葦の沼』を取囲んだ こ の一画の 住人らしき人のひとりにさえ出会したこともなかった
立ち枯れた葦を踏みしだいて
人ひとりほどが漸く通れるほどの湿った径を奥へ進むと
空を覆したような沼の碧さに驚かされる
近づくと水は玄く
それほど深い筈もない水が
無底の暗黒を孕んでいるかと見紛うほど畏ろしい
沼の所々には 浮島のように葦が茂っていて その島から島へと もう崩れそうな石橋が渡してあり この沼が嘗ては庭園の一部だったことを想わせはす るが その謂れを 誰かに聞いたことも あるいは 何かで読んだこともなかった また 彼に会いに行くとき以外は こゝを通ろうとも 近づこうとも想うような場所ではなく ましてや この『葦の沼』のことなど 普段は想い出しもしない場所だった
陽射しが水面を暖めて幽かな靄の中に粒のような光を蓄えている
ゆらゆらとする石橋を渡り 葦間に隠れ また石橋を渡る
風が通り抜けるたびに 誰かの囁き声かと辺りを見回すが
葦に覆われ 曲りくねった径筋の先にも後にも人の気配はない
ここに入り込むと時間も距離も失ってしまう
幾ら進んでも迷路のような葦の径の
その外には抜けられないような想いがする
そして また そして 右往左往湿った径を徘徊り 漸くもう一方の『葦の沼』の岸に抜け 家屋敷の一角を切って築いたよな小さな丘の袂 俄に白んだ雑木林の入口に辿り着く
彼の家はもう近い この雑木林に包まれた小さな丘を登って行けば
あの『綴の庭』が出迎えてくれる
雑木林の落葉の中に踏み入れた筈の左足が 水に落ちたように何処までも沈んで地に着かない 白い目眩が中空を捉えると 葦間を声たちが通り抜けてゆくような遠い跫音がする 目眩の中に暗黒が滲んで 空が落ちる 真夜中の冷たさを吐き入れるものの気配が この呼吸を包み籠む
─── 玄い静けさが 誰かを待つ窓辺の眠たさに 遠い空鳴りの在処を伝えていた いつまでも反復する夜々の褪めた壁面では 魂たちが 黄色い微かな灯を明滅させて たゞ 消え入るその時間を数えている
葦の沼 黙しき水
廻り寐ぬ 砂の種族
我共に 夢より出づ
人糾ふ 水は玄く
束ねし指に その葦
眞白き名を 想ひ置く
彼 睡り こゝ 語らし
我 息し こゝ 睡れる
さはれ 波 咒すとて亡し
Ensemble Inaudible
『葦の沼』 のための即興
Café & GalerÍa PARADA Sprigon 2013
5月18日sat 18:30 open 19:00 start
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