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自己紹介(ロングバージョン)

私、鷲津祥徳(わしずよしのり)をディープに知っていただけるよう多少ディープな自己紹介を書きました。お時間があるときにぜひどうぞ。
1分で読める簡潔版はこちらです。

幼少時代

高知県で生まれるも父親の転勤で、千葉、静岡、札幌、岐阜、福島など10回以上の引っ越しを経験。おかげですぐに仲間を作ってどんな環境にも馴染んでしまう順応性の高い子に育ちました。

小学校時代

小学校は3年生まで千葉県柏市、6クラスもある比較的都会で不自由ない生活環境だったところから、4年生から岐阜県瑞浪市に転校。山を2つ超えて約4キロ1時間を徒歩で通学する2クラスしかない小規模な学校で、買い物するにも1時間に1本のバスで1時間かけて移動するなど超田舎の環境。中学2年まで暮らしたのですが、自然にたっぷり囲まれて生活をする経験はこの時だけだったかと思います。

中学校時代

中学校3年生で福島県伊達郡に転校。これまた田舎ではありましたが瑞浪に比べると随分都会で、元々10クラスだったのが数年前に2つに分校したということで空いている教室も多く大規模な学校という印象でした。千葉も福島も岐阜も社交的な両親のおかげで良い人々に恵まれた生活でしたが、福島は特に人付き合いが良いというか、友達を大切にするというか、そういった印象が強く残っている。部活は野球部。レギュラーにはなれず、ちっともうまくならなかったですけど、今思えば野球というスポーツを一切科学しておらず、素振りして守備練習して体力つければうまくなると思っていたぐらい、戦略が無かったからなのかなと思います。本当は体験入部してそこそこセンスがあると感じた柔道部に興味があったのですが、小学校から野球を習わせてくれた野球好きの父親から「柔道じゃ食っていけないからダメだ」と言われ野球部になったことを記憶しています。当時野球部は一番花形だったのでそれでも良かったのですが。また、優しくおとなしい性格で頼まれると断れない性格と、成績もそこそこ良かったことから生徒会や学級委員長に推薦され選ばれることがよくありました。そういえば岐阜では野球部でキャプテンやらされていたっけ。

高校時代

中学卒業後は親元を離れ、千葉県柏市にある道徳と上下関係を徹底的に教育される規律の厳しい全寮制の高校として有名な麗澤高校に入学。ここでラグビーと出会って人生が大きく変わりました。ボールを持てば「自由」で無数の選択肢がある球技において、戦略を着実に実行することで敵がいない空いたスペースを創造し、そこにできるだけ早くボールを運び人数で数的優位を作るか、選ぶ戦略によって勝敗の行方が左右される醍醐味を知りました。今思うとビジネスととても通じるものがありますね。ブルーオーシャンな事業領域を見つけ、自社の経営資源をそこに集中させ、最速でその領域のシェアを取りに行く、当時は全く思いもしませんでしたが今考えるとビジネスと同じですね。とは言え、ラグビーも当時は野球同様に全体を見て戦略的にラグビーをすることはできていませんでした。スクラムを最前列の真ん中で組むフッカーというポジションだったこともあり、走って体力をつけ、筋トレをして体大きくし、スクラムで優位に立つこととラインアウトのマイボール確保、これぐらいしか意識していなかったように思います。近視眼的だったんだろうなと今振り返ると感じます。

ラグビー以外にも全寮制だった高校3年間ではかけがえの無い経験をすることができました。挨拶や敬語の使い方はもちろん、上級生や目上の方に対する接し方、共同生活をする際のエチケットなど、その後社会に出ていく上で必要なマナーを入学から1ヶ月で叩き込まれ、その後の人生において初対面で他の人よりインパクトを残しつつ大きく役に立っただけでなく、コミュニケーションの質や気遣いが意識しなくても反射的にできるようになりました。

まあ、寮の教えは行き過ぎていたものも多かったですけどね。例えばある3年生の上級生が自分の服を洗濯物しようとするのを見かけたら、それがたとえ知らない上級生であっても、飛んでいってすぐさま「お代わりします!」と洗濯という行為自体を奪い取る。そうしないと「お前は洗濯をしようとしていた上級生に何の心配りもしなかった」といって同じ部屋の2年生の上級生から夜な夜な反省会で指導を受ける、そんなこともありましたので(笑)。ただ、そんな3年間、寝食をともにして過ごしてきた同級生は今でも深い付き合いができていますし、卒業以来初めて会うような人でも、まるで昨日も会ったかのように話ができる、そんな存在の仲間ができたことはものすごい価値だなと感じています。

大学時代

「自由」にものづくりがしたいと考えて、大学は「自由」で有名な京都大学工学部に入学。大学2年生の夏休みにはロサンゼルスでホームステイを経験。父の高校時代からの友人がスタートアップを経営をしているということもあり1ヶ月ほど滞在させていただき初めての海外を経験しました。オフィスで使うパソコンの組み立てとLinuxのインストールとセットアップといった基礎を学び、さらにWindows95が日本で発売する前だったということもありインターネットが既に浸透を始めているアメリカとのビジネス環境の違いがとても印象的だった記憶があります。大学3年時にはシンガポールに滞在。今思うと当時はまだまだ普通のアジアのー都市でしかなかった印象でしたが、将来自分とこんなに深く関わり合う国になるとは思っても見ませんでした。大学4年の夏休みには再びロサンゼルスに今度はインターンとして行くと、そこでUCLAと3Dカーナビを共同開発するプロトタイピングの真っ最中でした。急成長するソフトウェアやインターネットの限りない可能性を感じ、これは海外でソフトウェアビジネスをしたいと強く思いました。

社会人:ゲーム業界編

一方で、アメリカで学ぶ同世代の大学生との実力の違いを強烈に見せつけられもしました。英語も話せない、プログラムも全然書けない、正直比べものになりません。こうなったら最短距離でこれらを身につけられる環境を探そうと考え、目立ちたがり屋だったことも重なって(笑)、自分が作ったことを人に自慢できるような、誰もが知っているソフトウェアを作れる会社、さらにすぐ海外を舞台に挑戦できる会社、という観点で就職先を探し、当時急成長をしていた㈱ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)に入社することになりました。役割はソフトウェアエンジニアとしてゲーム機を動かすためのOSやドライバーの開発、ゲーム制作に必要なソフトウェアライブラリの開発、さらにゲーム開発者に対する技術コンサルティングをおこなうというものでした。

入社後1ヶ月で早速海外にチャレンジできるチャンスが到来。次世代ゲーム機を海外のゲーム開発者と一緒に立ち上げる担当者の募集で、迷わず手を挙げたところ選ばれ、入社1年目にもかかわらず1人でロンドン、シリコンバレーへと赴任。英語も話せず、技術力も全くなかったのですが、現地与えられたミッションを達成するために「自由」に考え行動を起こし、持ち前の順応性で言葉も技術も身につけて帰国することができました。そのおかげで、帰国後は海外企業とのプロジェクトには必ず参加させてもらえるようになり、サンノゼやテキサス、ニューヨーク、ロサンゼルスに頻繁に長期出張に行き、Cisco/IBM/NVIDIAといったIT大手企業からEpic Gamesのようなゲーム企業まで、欧米の最先端の技術者やマネジメントたちと一緒に商品や技術開発をリードしてきました。ゴールだけ決めて「自由」なプロセスで達成する、そういった仕事の進め方にトコトンこだわっていた20代でした。

「自由」なスタイルにこだわって仕事をし続けていた20代の私ですが、その間もロンドンやシリコンバレー、そして日本のスタートアップの友人達は一緒に起業しようと常に誘ってくれていました。テクノロジーが世の中を大きく変えつつある中、欧米の最先端の環境でビジネスをしてきて感じたのは、テクノロジーをベースにグローバルで勝負すべきという気持ち、しかもそれを自分がやりたいと思うビジネスで実現できたら最高じゃないか。これは大学生時代に芽生えた感覚そのものでした。海外の技術者やマネジメントたちと一緒に商品や技術開発をしていく中で、ゲームやITの世界で頂点に立つ人々の考え方や技術レベルに慣れてくるにつれ、いつしか自分自身で世界にチャレンジがしたいと思うようになっていました。

社会人:動画スタートアップ編

そんな中、世の中の技術やエンターテイメントのトレンドがゲームからモバイルやWebにシフトし始めたタイミングで新卒から丸9年勤めた会社を離れ、志を共にした仲間数人で起業。欧米の経験が長かったのですが、その知見をアジアに投じよう
と決めました。社名はSprasia(スプラシア)、"Spread in Asia"という理念の元、技術やクリエイティブといった日本の良いものをアジアに、そして世界に広げていこうという理念を掲げて東京で仲間たちとともに、今で言うTikTokやYouTuberのような動画サービスの事業をスタートアップとしてはじめました。

ブログというインフラができたことで、ライター以外の人が手軽に自分の文章で自己を表現して世界中に発信することが当たり前になった時代。同じように、YouTubeという動画インフラができたことで、映像クリエイターじゃない人がブログのように手軽に映像コンテンツを制作して、自分の放送局を持つようになるだろう、そう考えてB2Cビジネスをスタートしました。まだ物珍しい動画プラットフォームサービスだったこともあり投資家ウケはよかったですし、技術やコンテンツをベースにしたプラットフォームビジネスだったため優秀な技術者やクリエイターの採用は比較的スムーズにできていました。マネジメントがグローバル経験の多いメンバーでスタートしたこともあり社員20人程度の時期で既に10カ国以上の国籍の人がいる超グローバルな組織で運営していました。

しかし、サービスコンセプトは面白いと思ってもらえるものの、Wi-Fiも広まっていない環境で動画の視聴には多くのパケット代が必要になることや、iPhoneも発売されていない時代なのでガラケーの小さな画面で画質の粗い動画を見てもよくわからないといったこともあり、C向けにはなかなか広まっていかない。動画を撮影するのも当時はデジカメやハンディカムで撮影したものをパソコンにつないで転送して、ブラウザ開いてアップロードしてという今思うと気の遠くなるような手間が必要だったこともあり投資家の方々からも「一般向けには7−8年かかるな」と言われてもいました。そこまで続けて行ければよいですが、動画配信サービスを維持するには当時は膨大なコストが必要でした。AWSなどのクラウド環境がなかったため、サービスの成長を予測しデータセンターでラックを手配し、大規模ストレージサーバーを購入し、トラフィック急増に絶えられるロードバランサーとそれにつなげるキャッシュサーバーやアプリケーションサーバー、大規模向けのファイアウォールに配信用のGbps回線を複数、といった感じでした。C向けに進み続けるべきかどうか考えていた頃、リーマンショックが発生し市場が一気にトーンダウンしたことで、作ってきたサービスをB2Bに大きくシフトすることを決断しました。企業や店舗向けの動画広告プラットフォーム、デジタルサイネージ、動画を活用した販促キャンペーンなどにこれまでB2C向けに構築してきたプラットフォームを展開し、サブスクリプションモデルで月額で利用料を頂くモデルに変更することで月額のストック型売上を積上げていく事業に舵を切ったことで風向きが変わってきました。

社会人:海外事業編

徐々に事業が成長していく一方で、開発は困難つづきでした。新卒で入ったプログラマーたちが、ソーシャルゲーム会社に高給で引き抜かれる。国内で開発リソースを確保することの難しさを体感しました。そこで海外で開発しようと考え、インドや中国の開発会社に依頼。しかしこちらは上手くコントロールできず、海外で開発するまた別の難しさを痛感しました。この時にITリソース不足を課題にもつ企業は、日本だけでなく世界中でさらに増えていくだろうと確信しました。世界中の企業が今後ますますもつであろう人材に関する課題をITで解決したい。この思いからいまにつながるCYOLAB/Sprobeという会社を設立し、サービス提供を開始しました。アジアで英語でビジネスができる国ということでシンガポールとフィリピンを拠点に選びました。社員10人でスタートしたCYOLABとSprobe。IT開発のアウトソーシング事業を軸に設立2年半で6倍の60人にまで増やすことができました。アベノミクスが始まる前で円高だったということもあり、日本との物価差の大きさや、アジアの成長の速度に自分のこれまでの商習慣を思いっきり切り替える必要性を感じていました。

これ以降は、日本をベースにフィリピン、シンガポールを行き来する日が続き、小さい娘2人を自分も働きながら育ててくれた妻には本当に支えてもらいました。代表取締役の自分が不在にも関わらずスプラシアは若いメンバーがお客様の対応を実直におこなってくれたことで事業運営は安定していました。外部事業会社に資本参画していただいていたこともあり、堅実に事業を成長させて利益をだしていくことに重点を置いた経営をおこなっていました。

一方、製造拠点であるSprobeは製造品質や生産性の向上、さらには社員が定着する組織づくりという点を重視しして取り組んでいました。その甲斐もありパートナー企業と良好な関係を構築しながら、新たに会計のアウトソーシング事業やクリエイティブ事業を立ち上げるなど順調に成長してきました。事業の成長に伴い、自分が使う時間の比重も少しずつ変わっていき、さらなる成長のためには、これまでのように日本をベースにシンガポール・フィリピンという関わり方ではなく、シンガポール・フィリピンをベースに日本と関わっていくべきだ、少しずつそういった想いが強くなってきました。外部資本も入っているスプラシアをそのままにして軸足を海外に移すことはできないと考えました。筆頭株主と協議を重ねスプラシアをExitすることになり、株式会社博展の100%子会社になりました。

その後2016年にビザを取得し家族でシンガポールに移り住み、シンガポールをベースにフィリピンと日本を行き来しています。月の半分はシンガポール、残り半分でフィリピンと日本といった感じです。

軸足を移したことで集中することができるようになり、設立7年で200名近いスタッフをかかえるまでになりました。同時に日本での拠点も2019年から開始し、2020年には東京拠点は12名にまで増員。少しずつ組織として動き出し、様々な業務が仕組み化でき始めてきています。今まででは考えられなかったのですが、私が全く知らないところで受注がなされ、全く知らないうちにお客様がセブの現地視察に来られたりもするようになりました。彼らの存在が日本のIT人材不足に対して大きな影響をもたらせてくれることに必ずなってくると強く感じています。

社会人:IT開発ハンズオンアドバイザリー事業

これからIT開発はもっともっと多くの人にとって身近でかつ必須なものになっていきます。今までアプリを作ったり、自社向けにWebを使ったシステム構築をしたりしたことがない企業や店舗でも当たり前のように自分オリジナルのものを持つようになってくると思います。数多くの企業のIT開発のお手伝いをする中で、企業が開発を委託することを決めるまでに非常に多くのステップと課題があることがわかってきました。

例えばIT開発の経験が無い企業の場合
・誰に相談すればいいのか
・何を伝えればいいのか
・そもそもどうやったら見積もりしてもらえるのか
・もらった見積もり金額の妥当性はどう判断するのか
・相見積もりの選び方
・発注してからどうやってこちらの要望を伝えて進めていくのか
・こちらの意向と違った時の対応方法
・完成後の保守について
などなどわからないことがたくさんあります。これからの課題や疑問をまず解消してあげる支援が必要だと感じました。

その上で開発会社を選定するステップに移ることができます。さらに開発会社には開発する目的をきっちり成し遂げてくれるパートナーを見つけ、その目的を達成できるまで伴走する、そういった関わり方をすることの必要性を強く感じてきました。
また、日本のIT企業は世界と勝負をしていくことが求められる中、今後100万人近い規模で国内のIT開発人材は不足してくると言われています。開発人材不足が理由で世界での勝負に負けてしまうことを避けるためにも国外の開発拠点の立ち上げや開発パートナーの確保は急務です。

そうは言っても
・海外にいる外国人エンジニアのマネジメントはできるのだろうか
・どの国が自分たちにマッチするのかわからない
・開発パートナーはどうやって探せばいいのか
・開発拠点は海外にどう立ち上げればいいのか
・現地エンジニアの採用や育成はどうすればいいのか
など不安なことが山積み。
こういった企業が世界でチャレンジするための支援も必要だと強く考えています。
これらの課題に対して皆様のご支援をすべく2021年にATHLEEを設立しサービス提供を開始しました。

ATHLEEでは、そんな想いのもとに集まった仲間とともに日本のそして世界のIT開発に関する経営課題を解消していくサービスをこれからもつづけていきます。

これから

2020年代は中国の時代と言われています。2030年代はインド、そして2040年代には人口第3位になるナイジェリアを中心としたアフリカ、という考え方もあります。シンガポール人は75%が中華系、10%がインド系と言われていることや地理的に中国やインドとビジネスをしやすい環境にあります。東南アジアから西を覗う際の一番見晴らしが良い場所だと感じています。しばらくはシンガポールを軸にしてチャレンジを続けていきたいと考えています。

最後に

ATHLEEのビジネスやサービスにご興味をお持ちいただいた方は下記コーポレートサイトをぜひ御覧ください。

ATHLEEコーポレートサイト https://athlee.sg

私へのお仕事のご依頼やご相談も絶賛受け付けておりますので、こちらからぜひご連絡ください。

ここに書いてあるような想いに共感し、一緒にチャレンジしてくれる仲間を募集しています。東南アジア、南アジア、オセアニア、東京、そしてシンガポールそれぞれのエリアで正社員、業務委託、フリーランス、個人事業主、パートナーといった様々な形で一緒にビジネスできる仲間を探しています。

また、私たちのお手伝いを必要とされている方をご紹介いただくだけで成約時に謝礼をお支払いする取次パートナーも募集しております。

ご興味をお持ちいただいた方はぜひinquiry@athlee.sgまでメールをお送りください。どうぞよろしくお願いいたします。

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