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朝が来る

背中にまとわりつく汗が、意識を覚醒させた。暗闇の中、開けっぱなしの窓にかかるレースカーテンは微動だにしない。



起床予定時刻よりも前に覚醒してしまったとき、私がまず最初にすることがある。現在時刻の答え合わせだ。
頭上に手を伸ばし、枕元の目覚まし時計を手に取る。休日だからアラームはかけていない。

4時10分。
やっぱり。

途中で目覚めるときは大体、4時台のことが多い。これは非常に厄介だ。平日なら6時、休日でも6〜7時には起きるから、この時間からじゃ寝るにも寝られない。かといって、起きるとそれはそれで昼間に眠くなる未来しか見えない。

とはいえ今日は休日なのだから、今から寝て8時に起きる、でも別に構わないだろう。
だけど、この気温では。



私はそっと布団を抜け出し、自室へと向かった。敷居を踏んでギギッという耳障りな音を鳴らしてしまい、体が硬直する。
半分だけ、カーテンを開けた。レースの向こうは暗闇。こんな時間に起きるの、いつぶりだろうか。パン屋で早朝シフト入ってた頃ですらなかった。

一旦、階下へ向かい手を洗う。冷凍庫から氷をわしづかみしてコップに投入。蛇口を捻って水を注ぐ。氷の溶けぬうちに飲み干してしまい、もう一度蛇口を捻って水を注いだコップを手に、階上へと戻った。部屋の電気は消したまま、デスクライトだけつける。少し前に無印良品で買った「1日1ページノート」を開いて、少しばかりペンを走らせる。もらった言葉を書き留める。感じたことを書き留める。消えてしまう前に。書き換えてしまう前に。



同義かもしれないが、「私は生きることに執着がないのかもしれない」と最近ふとした時に考えるようになった。帰りの快速電車のドアにもたれて、陽の落ちた街をぼんやり眺める時間に、線路際の名もなき広い道を歩く空白の時間に。一方、"手を放す"意思もない。なぜなら何も解決しないのを、むしろ遺された人たちが永遠の裏切りに怒り悲しみ呆れるのを、身をもって知ったから。結果、「生き長らえる」という選択肢を受け入れたんだと思う。
今の私は浮草だ。地に根を張ることもせず、かといって泳ぐこともせず、水面にたゆたんでいる。


そんなことを考えていると、階下で炊飯器の炊けるメロディーが聞こえた。レースの向こうは徐々に暖色に包まれ始めていた。ノートを閉じて、デスクライトを消す。外へ出て、ポストから朝刊を取り出しふと顔を上げると、緑掛かった青空に、オレンジ色の朝陽を受けて伸びる一筋の線があることに気づいた。



いつも夕焼け空を眺めていて飛行機雲を見つけたときと同じことを思った。


あの飛行機は、何時にどこを発って、どこへ行くのだろう。
あちらからこちらを見たら、どんな世界が広がっているのだろう。


調べればすぐにわかるだろうことを、ブルーライトを介してではなく、この目で見てみたいと思った。そして、「見てみたいと思った」という今この一時いっときの欲求を覚えたことすら忘れた頃に、旅の計画上やむを得ず早朝発の飛行機を予約して、空いていたからという理由で窓側のチケットを取って、機内で見る映画もなくスマホも圏外になって手持ちぶさたになって窓の外を眺めて、その偶然の連続の延長線上で「あちらからこちらを見る」という欲求を叶えたいと、そう思った。

このいつ降って湧くかもわからない刹那の気まぐれが、今日も明日も私を生き長らえさせる私の道そのものなのかもしれない。



6時になった。
いつもの朝が、私のよく知る朝が来た。


昨晩炊きすぎたお米で焼きおにぎりを作って、朝ごはんにした。
雑な計量のせいで水分量が狂ったお米は、焼きおにぎりにしてもそのパサつき具合を誤魔化すことはできなかった。