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「十二国記」を読んで

 昨日、『白銀の墟 玄の月』を読み終え、今出ている「十二国記」は一通り読んだことになる。正確にいうと、まだ『魔性の子』は読んでいないので全部とはいえない。ただ『魔性の子』はEpisode 0に位置付けられており、「十二国記」の話自体は『月の影 影の海」から『白銀の墟 玄の月』までなのだと思う。手元にある『「十二国記」30周年記念ガイドブック』をみると、『魔性の子』は「十二国記」からみた蓬莱(日本)の側の話らしい。『魔性の子』は近いうちに読もうと思っているが、とりあえず本編を読み終えた直後の率直な気持ちを書き留めておきたいので、こうして文章を書くことにした。

 『月の影 影の海』『風の海 迷宮の岸』の2冊を読んでから、大学院入試を挟んだこともあって、『月の影 影の海』から『白銀の墟 玄の月』までの14冊を読み終えるのに約半年もかかったことになる。読書メーターの記録をみてみると、『月の影 影の海』の上を読み終えたのが昨年の5月26日となっている。そして、『白銀の墟 玄の月』の第四巻を読み終えたのが昨日、すなわち、2023年の1月9日だ。先述したとおり、読み終えるのに約半年もかかったのは大学院入試を挟んだことが大きいだろうと思う。けれどなんだろう、この気持ちは。えもいわれぬ喪失感というか。『風の海 迷宮の岸』を読み終えたのが昨年の6月16日で、大学院入試を終え、「十二国記」を読むのを再開しようと思って『東の海神 西の滄海』を読み終えたのが同年12月12日。今こうして読み終えた日付だけみると結構間が空いているのにもかかわらず、その期間で連続性が途切れたようには思われないのだ。そう感じたのがいつのことだったか覚えていないが、「十二国記」は私にとって間違いなく大切な作品になる、そのような確信めいた思いを抱いていたからこそなのかもしれない。けれども、とりあえず『白銀の墟 玄の月』まで読み終えてしまったことで、しばらくは「十二国記」の世界から離れざるを得ないと今は感じている。『白銀の墟 玄の月』を読み終えそうになるときの喪失感は久方ぶりに感じたものだった。いや、この感情は初めてのものなのかもしれない。そう思わせてくれるほど、「十二国記」という物語は壮大だった。

 「十二国記」を読んで感じたこと、思ったことは無数にある。読書という体験は、読んでいるまさにそのときに訴えかけてくるリアルで、生々しい言葉にするのが難しく、また、惜しまれるような読者当人にしかわからないようなどこかミステリアスなところがある。メモを取ったりして、その体験を回顧的に記述しようとしても、リアルで、生々しい部分は捉えきれない。そのもどかしさと体験そのものとの距離が、読書という体験を神秘的ならしめているのだと、私は思う。「十二国記」を読むなかで、私はいくつものそのような神秘的な体験をした。小野不由美さん(以下「小野主上」とする)が描く「十二国記」の世界は、私を捉えて離さなかった。今もまだ虜だし、これからもずっと私は「十二国記」の虜なのだと思う。それでもかまわない。むしろ光栄だとさえ思う。そこには、私が心からついていきたいと思え、尊敬できる人物がたくさんいるのだから。

 とりあえず今回はここまでにする。「十二国記」に関する記事はこれからも投稿していきたいと思っているから、それを踏まえると今回の記事は総論的な立ち位置ともいえる内容になったと思う。この記事を読んでくださっている方で、まだ「十二国記」を読まれたことがない人はぜひ読んでみてください。私は基本的に私が本を読むからいって人に本を読むのをすすめるような人間ではありませんし、ましてや自分が大切にしている本を他者におすすめするのは憚られます。特に小説は価値がきわめて個人的なものですから。それでも、「十二国記」は強くおすすめしたいです。この本は、普遍的な価値を扱っている側面があるし、なによりもおもしろいです。今よりも人生をしなやかに、したたかに生きていこうと思わせてくれるような作品です。


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