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 傷は癒えるのだろうか、ということをたまに考える。癒える傷もあるし、癒えない傷もある。これはなにも言っていないのと同じことだ。私にはどうしようもなく私自身の傷のことしかわからない。他者のことなんてけっきょくはなにひとつわからない。ときにはわかった気になることもあるけれど、それはただの傲慢だ。コミュニケーションの前提には「わかりあえないこと」があることをけっして忘れてはならない。

 私には癒えない傷がある。ひょっとしたら世の中のたいていの問題は時間が解決してくれるのかもしれない。けれど、私にはそうは思えないことがある。少なくとも今は、という留保はつくけれども。あるいは、傷を忘れたくないという自分がいるのかもしれない。忘却は人間に備わった美しい機能だ。なにかを忘れることができないのはときに悲劇である。人には誰しも忘れたくても忘れられないこと、忘れたくないのに忘れてしまうことがあるのだろうか。

 私はずっと、自分が傷つけられるのはかまわないと考えていた。自分が他者を傷つけなければかまわない、と。でもきっと、それはただの強がりだった。私もほんとうは傷つくのはいやだった。傷つけなければ傷つけられるのはかまわないというのは私がこうありたいと思う自分であって、私ではなかった。今でも他者を傷つけることよりも傷つけられるほうがいいと思う自分もいるけれど、傷つけられるのはいやだと自分がいることを認められるようになった。

 人が傷つくようなことでは傷つかないのに、些細なことで傷つくことがある。もしかしたら私みたいな内向的で繊細な人間はそうありやすいのかもしれない。普段は忘れているのに、ふとしたときに思い出されて苦しくなる。なにも事情を知らないのに勝手なことをいわれたら誰だって傷つくものだろう。どうしたって他者の事情をすべては知ることはできないし、あらゆる言葉は鋭利になりうる。それでもいつかの私は、なにも言わないでいるよりも、なにかを言おうと決意した。言葉を遣うということは、どれだけ気をつけても他者を傷つけないわけにはいかないし、私自身も傷つかないわけにはいかない。それを覚悟だとか、信念だとか、強い言葉で正当化してはならない。私にできるのは、私が他者を傷つけうるにもかかわらず言葉を遣っているということを忘れないでいることだけだ。


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