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23歳の私へ

 いつだろう、私が私自身を確信したのは。確信というほど心の動きは能動的ではなかったかもしれない。それはあたかも天啓を受けるような感覚に近かっただろうと思う。私はずっとわからないでいたことに答えを出せた気がした。それ以来、私は私自身を確信するたびに微笑みをみせるようになった。

 私は、どうして私が世界に存在しているのか、ずっとわからないでいた。そんなのは当たり前だ。生を授かること自体偶然の賜物で、一般的に人は後天的に自分を世界に定位して生きていくとされる。幼い頃から将来を見据え、いったい自分は何者になれるのだろう、また、何者になりたいのだろう、と漠然と問うて過ごす。他者や社会と触れて、自分を相対化しながら少しずつ、でも確かに、やりたいことややるべきことをみつけていく。

 私は、幼い頃に抱いた夢を叶えた人には拍手を送るし、夢を諦め辛いことや苦しいことを抱えながら妥協して生きている人をみて立派なことだと思うだろう。「生きるためだから仕方のないことでしょう?」そんなことをいわれると涙を流しそうになる。どうしてそんなに生きることを当たり前のように語って、苦しそうにしてるんだ。私には、そんなありふれた辛さや苦しみを抱えながら妥協する人が語る言葉が痛切に感じられた。それでも、それを聞くたびにやはり私とは違うなと思った。それは、辛くても、苦しくても、生を前提に人生を送っていることで、いつかの私にはそれはとてもできそうにないことだった。今もまだ、難しいことだと思っている。

 私が私にとっての生を強く意識したのは、他者や社会が価値を認めているとされていることを投げ出そうとしているときだった。「まあ、やれることはやったさ。うまくいかなかったかもしれないけれど、よくやったよ」。そんな風に自分で自分を慰めて、それでもどうしても言葉だけでは癒えない傷をみつめていたときだった。もしかしたら私には無理なのかもしれない。そう何度も思った。涙を流すこともあったけれど、いつからか涙は流れなくなった。代わりに、心が静かに血を流していた。感情があまりにも摩耗していた。

 そんなときに、私はどうして私がこの世界にいるのか、なんとなくわかった気がした。最初はただの予感だったけれど、感情が摩耗し、心が血を流す程度が大きくなればなるほどその気持ちは確信に変わっていった。それからも辛いことや苦しいことはあったけれど、そのたびにそのことが思い出された。涙を流し、心が血を流し、感情が摩耗してなお私の中で価値を失うことがないものがあった。

 光あれ、と神さまが言うように、まっくらやみの中に沈んでいた私の最奥から豆電球が灯り、押し広げていくような──。そんな感覚だった。

 今、22歳の私は、23歳の彼女のように立派とは言い難いけれど、それなりにやっている。体の状態が悪化して進学が決まっていた大学院への進学を断念せざるを得なくなったときは堪えた。でも、時間が経つにつれて、もしかしたらそういうことは些細なことなのかもしれないと思い始めた。これまでの私は、そういういくつものささやかな問題を包括するような、とても大きな問題の前に私はただ立ち尽くすことしかできないでいた。体の状態のことも、大学院に合格しながらも結局進学できなかったことも、その大きな問題に収斂される。けれど、私はその問題の大きさや深刻さを知っていたのにもかかわらず、目を逸らしていた。ないもののように扱って、日々を過ごしていた。みるべきものから目を逸らすためのいくつもの言い訳をみつめていた。

 私は今もまだその問題の渦中にいる。あるいは、生きるということはそういうことなのかもしれないとさえ思う。天啓を受け、私自身を確信したからといって、あらゆる問題が綺麗に片付くわけではない。大切なのは、それから天啓を善導して、適切な意思を持ち、適切な場所で、私自身をみつめることだ。そりゃ、体は痛いし、不安は尽きないし、希望がないなんてリアリティのない言葉の代わりに生きていける自信がないという切実な問題にも襲われている。悲観的な私は、いつかの私のように「まあ、やれることはやったさ。うまくいかなかったかもしれないけれど、よくやったよ」といって諦めるのだろうか? 

 私にはわからないことが多すぎる。どうしてまだ生を諦められないのかさえわかっていないのだ。私は天啓も、自身の確信も、そのときにみせる微笑みさえも捨てても構わないと思ったこともないわけではない。それは私が私であることを自分で否定することと同義で、ナイフで胸を突かれるほど痛いことなのに、その痛みからさえも目を逸らそうとしたこともあった。

 もし私が今も生への執着を捨てられないのだとしたら、それはひとえに私が信仰する物語の瞳を忘れられないからだろう。その瞳は私をみてないのに、私に問いかけてくる。いや、正確には、私が私自身に問いかけるように促す。「きみは、本当にそれでいいの?」と。それは、色のない、私を私のままみつめる瞳で、私にはどうしてもその瞳の価値を否定することができない。こんなにも深く呪いに沈んだ世界で、私を照らす、世界の誠実な側面だった。

 ねえ、だからきっと大丈夫だよ。


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