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五月雨式はお好き

 こんにちは。柚子瀬です。

 最近本を読んだり散歩したりして考えたことを五月雨式に書いていこうと思います。

私は司法試験はめざしたいけれども、法曹には向いていないのではないのか、と思ったことについて

 そのまんまです。大学生のころからこの手の問題はずっと頭の片隅にはあります。いつからか、公務員か法曹のどちらをめざすかという問いが私を襲いました。3,4年ほどこの問いと付き合ってきて私がみつけた暫定的な答えのようなものは、「職業としては公務員のほうが向いているだろうけれども、試験としては司法試験をめざしたい」です。言葉でいうとなんともないのですが、これは私の価値観の深いところに根ざすけっこう厄介な問題なんですよね。公務員をめざそうとすると、真辺由宇の瞳がちらついてくる。「貴方はそれでいいの?」と問われているようで、私もやはりできるなら否定する理想主義者でありたいからこれまでは「いや、そんなわけがない」と否定して司法試験のほうをめざしてきました。けれど、身体がこんなふうになってしまって、私は深い部分では「このままの身体ではぜったいに司法試験に合格できない」と思っているのだとも思います。それでもその道をめざすから尊い。そのとおりでしょう。私もそう思います。なんといっても、私が司法試験というものに求めているのはその過程で今よりももう少し私の価値観に誠実であれる私になれるだろうと期待しているからです。合否なんてどうでもいいんです。他方で、身体がこんなふうになってしまって、私の人生に対する態度のようなものも変わってきた。私はほんとうに経済的な豊かさのようなものに興味がなくて、死ぬまでにどれだけおいしい珈琲と素敵な本に出会えるのかだけにしか興味がないんですね。もちろん、そのためにはある程度の経済的な基盤は必要ですが、法曹にならなければできないというわけではない。むしろ、この身体で司法試験をぜったいに合格しなければならないと気負うのは却って私の価値観とは反対の悲しい結果にしかならないとも思います。身体の状態が安定し、然るべきときが来たら司法試験を受けたいとは思います。でもそれっていったいいつの話だろう? 身体がこんなふうになってしまって、私はやはり価値観が変わったのだと思います。以前は何年かかろうが司法試験に食らいつくつもりでしたが、今はそんなことよりも大切なことができてしまいました。それを言葉にするのは難しいのですが。思いつくままに書いてきました、たぶん司法試験の勉強を一切やめて公務員試験の勉強だけをしてもこれまでの3,4年間にかんがみるにうまくいかない蓋然性が高いので、司法試験合格をめざしながら公務員をめざすことにしようと思います。でもたぶん、公務員になるんだろうなという予感があります。だってやっぱり私が生まれてきたのは「階段島」に出会うためだろうし、そうだとしたら私が七草と同じ公務員になるのは必然的に思われるからです。それでも、そのことが司法試験の勉強をしない理由にはなりません。今の私にはこのルートしかないのです。うまくいえないのですが。そう思えたことで、私の心は司法試験に合格しなきゃと思っていたときよりも豊かになった気がします。

猫について

 将来猫を飼うつもりです。私が柚子瀬なので、猫の名前は「ゆずせ」。それだけです。猫に名前を付けるのは勇気がいりますからね。同じ名前だから懐いてくれると思います。

あとに残されること

 身近な人に先立たれたら私はどうなるのだろう...…と考えました。具体的には家族や配偶者に先立たれるということですね。家族には相当程度高い蓋然性で先立たれるでしょうし、そうしたら私は身寄りがほとんどいないので途方に暮れるだろうな、と他人事のように考えてました。リアリティーがあるようでないんですよね。私のほうが先に逝ってしまうことだってあり得るわけですし。妙にリアリティーが感じられるのは、たとえば将来私が結婚したとして、子どもはおらず、ふたりで暮らしていくことを想定します。そうしたとき、配偶者に先立たれてしまったらどうしようということなんですよね。それこそほんとうに途方に暮れてしまうのではないか...…。そんな予感がするのです。だから、というわけでは一切ないのですが、そのときに猫の「ゆずせ」がいてくれたら私と一緒に悲しんでくれるかなって、いや、なに考えてるんだという話ですが、なんだかけっこうそのことが切実に感じられて。

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