二年前の日記 5/21

2017/05/21

 裁判員制度が始まって、8年になるそうな。去年、自分にも裁判員の調査票が届いた。結局裁判に呼ばれることはなかったのだが、助かったような、ネタにならなくて悔しいような、複雑な気持ちである。

 裁判というのを傍聴席からではなく、裏側から見てみたいという好奇心は非常に強いのであるが、他人と顔を合わせるだけでストレスを感じる自分に、裁判員が務まるとは思えない。何時間も一室で顔をつきあわせ、議論し、結論を出さなくてはならないのである。どんな苦行だ。しかも、それが1日で終わるのならまだいい。だが平均審理日数は、平成15年度で6.1日だという。長い。ほぼ一週間かかるということになる。自分は「なんちゃって自営業」だからまだいいが、まともに仕事をしている人は、一週間も拘束されたらたまらんだろう。そりゃ辞退率も増えるはずである。

 また、それだけ苦労して一審で判決を出しても、高裁でそれが破棄される確率は13%程度あるという。この13%を高いと見るか低いと見るか。裁判員裁判以外の通常の裁判でも、高裁で判決が破棄される確率は11%以上はあるそうで、そう考えると裁判員裁判だけが極端に高い確率で判決破棄が行われている訳ではない。この数字は裁判員裁判が健全な裁判制度である証拠だと主張する学者もいる。ただ、だからといって判決に関わった裁判員に、徒労を感じるなというのは無理な話ではないか。「だったらもう裁判員裁判には二度と関わりたくない」と参加者が思ったとしても、それはやむを得ないのではないかと思うし、それが積み重なれば、いずれ裁判員制度が崩壊するのは目に見えているだろう。それでいいのかという話である。

 実際の所、現場の人間は裁判員制度のことをどう思っているのだろう。無駄だと思っているのなら、そういう声を上げるべきだ。税金の無駄遣いになる。「過去の判例とバランスを取るため」に裁判員裁判の判決を破棄するのであれば、裁判に「市民感覚」など必要ないということであるし、つまりは裁判員制度の理念自体が誤りであるということである。そこのところ、ハッキリするべきではないか。

 しかし、もし裁判員制度が必要だと現場の人間が思っているのなら、裁判のあり方をもう少し考えてはどうだろう。判例主義に固執することなく、もう少し柔軟な判決を下してみてはどうだろう。無理なのだろうか。

 今の裁判員制度は、国民の司法に対する不満を解消できていない。ガス抜きにすらなっていない。いい加減考え直すときに来ているのではないかと思う。


 19日、イランで大統領選挙が実施され、現職で保守穏健派のロウハニ氏が大統領に当選した。イラン国民としては、国際社会との対話路線の継続を求めたということである。その声に、世界は耳を傾ける必要があろう。

 そんな中、アメリカのトランプ大統領が初の外遊先であるサウジアラビアに到着した。サウジアラビアはもちろんイスラム教の国ではあるが、国教はスンニ派の一派、ワッハーブ派であり、シーア派を敵視している。そしてイランはシーア派の国だ。当然サウジとイランは仲が悪い。

 サウジは国内に米軍基地を置く、アメリカを中心とした欧米と親しい国であり、片やイランは核開発をしたとして、長い間欧米から経済封鎖を受けていた。いわゆる「核合意」によって――すなわち核開発活動を一定のレベル以下に制限する代わりに、欧米が段階的に制裁措置を解除するという、イランと米中露英仏独との間の合意である――イランが国際社会に復帰できたのは、2015年の7月のことだった。

 しかしトランプ大統領は、その核合意を見直すと発言している。彼のサウジアラビア訪問が、イラン大統領選挙の翌日だったのは、単なる偶然ではあるまい。トランプ大統領とサウジアラビア国王との首脳会談では、対イラン政策も話し合われたことだろう。果たしてアメリカは今後イランに対してどのような態度を取るのか。少なくとも、イランは対話を続けると行動で示した。それを踏みにじるような真似はしないでほしいと願うばかりである。

 イランは中東各地の紛争に介入し、あるいはテロ組織を支援している、とアメリカは非難するが、それはアメリカもロシアもやっていることである。何を今更。他にもイランには北朝鮮と結託してミサイル開発を行っている疑惑もあるが、少なくとも今のイランが隣国に対して核ミサイルの雨を降らせるぞ、と脅迫してはいない。イランが弾道ミサイルを保有したとき最も脅威を感じるのはイスラエルだろうが、イスラエルはすでに核ミサイルを保有している。中東情勢は東アジアの情勢と無関係ではないが、同じではないのだ。

 中東には安定が必要だ。それもISやタリバンによる安定ではなく、世界と対話できる勢力による安定が必要だ。そのためにはまず、中東において内戦状態にない、安定した国家を国際社会の側に引っ張り込むことが必要である。イランをいつまでも世界の敵の立場に置いていては、まとまる話もまとまらないだろう。イランから北朝鮮に流れる金を止めるためには、とにかくイランと対話せねばなるまい。イランは世界をより平和にするための、鍵を握る国である。なんとか対話の場に引っ張り出してほしい。すべてはアメリカ次第だと思うのだが。


 自分の生まれ育った地域では、祭と言えば秋の季語である。だが春祭や夏祭のある地域もある。冬祭はあまり聞かない。札幌には雪まつりがあるが。

 淡路島の北部、兵庫県淡路市育波では春と秋に祭があるのだそうな。しかし祭に参加する者が年々減少しているらしい。そこで青年会(青年団ではないのだな)は一計を案じた。それが罰金制である。つまり、祭に参加出来ない者は、1万円の罰金を払わねばならないということだ。これによって祭の参加者を増やす算段であったようだ。

 これを報じている神戸新聞の記事には、結果として参加者が増えたのかどうか書いていないので推測するしかないのだが、短期的には増えたのかもしれない。だが長期的には減少に歯止めはかからなかったろう。それどころか、地域を出て行きたいと考えている若い者たちの背中を後押しする結果になったはずだ。

 当たり前だ。何で祭に参加しないことを理由に1万円の大金を支払わなければならないのか。そんな馬鹿なことをする場所に、人が居着く訳があるまい。出て行きたいという気持ちがどんどん強くなるに決まっている。何故そこまでして祭を行う必要があるのか。人が減るのは地域の寿命である。いつかまた再生する可能性はあるのかもしれないが、少なくともいまは死に体なのだ。ならば祭も休眠させるべきだろう。無理をして祭を開いて、誰のためになるというのか。年寄りの自己満足のために、若い者が犠牲を強いられねばならない理由がどこにある。何が「せめて祭のときだけでも帰ってきてほしい」だ。勝手なことを言いすぎである。

 祭は地域に付随するものである。地域が祭に付随している訳ではない。祭の参加者を増やしたければ、まず地域に暮らす者の数を増やすことを考えるべきだ。人間の数を増やせないのであれば、祭など諦めることである。祭がなくとも人は死なないが、人が居なくなれば地域は死ぬ。どちらを優先させるべきかなど、子供にでもわかる理屈ではないかと思うのだが。

※ 裁判員裁判が始まって今年で10年です。政府の側は懸命に裁判員制度のメリットを主張しているようですが、現状では必要ないのではないでしょうか。まるで無駄です。アメリカの陪審員のように、有罪か無罪かだけを決めて、量刑は裁判官が決めるやり方の方が随分マシだと思います。公平性を盾に前例主義に固執するなら、市民感覚を取り入れるのは無意味でしょう。しかし前任者の決めたことを否定出来ないお国柄です、改善など見込めないでしょうね。裁判官も声を上げれば良いように思うのですけれど。
 イラン情勢はいま緊迫しています。トランプ大統領はボルトン補佐官のタカ派的傾向に不満を持っているとの報道もありましたが、だったら核合意から抜けなきゃ良かったのに、と思わざるを得ません。いまになって話し合う用意があるって言っても、イラン側は信じないでしょう。ディールだけでは世界は動かないのですよねえ。

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