二年前の日記 8/17

 長野県信濃町の山中に、イノシシ用の罠があった。そこにツキノワグマの子供がかかってしまった。猟友会所属の男性がその様子を見ていると、そこに母熊が現れ、男性に襲いかかり噛みついた。男性は何とかその場から逃げだし、友人に連絡を取ったが重傷を負い、長野市内の病院に搬送されたのだそうだ。連絡を受けた猟友会や町職員が現場に赴いたところ、まだ母熊はそこにおり、小熊が助けを求めて鳴いていたという。そこで小熊を殺処分したところ、母熊はその場を去って行った。

 町の職員や猟友会は、これといって間違った行動は取っていないように思える。しかし、この胸の痛みは何だろう。自分はやり場のない怒りというのはあまり感じない方だと思うのだが、この感情をぶつける所がなくて苦しい。

 繰り返しになるが、小熊を殺処分したことは理にかなったことである。放置すれば怒り狂った母熊が、人間にどれだけの被害を与えるかわからないからだ。それでも、だ。本当に小熊を殺す以外の選択肢は現場にはなかったのだろうか。熊の出ない街中に住んでいる何も知らない者の戯れ言だと笑うかも知れない。馬鹿にするかも知れない。でも本当に他になかったのか。小熊が生きて母親の元に帰るという選択肢は、毛の先ほどもなかったというのだろうか。

 信濃町産業観光課農林畜産係の担当者はこう言っている。

「近くに人家もあり、子グマが成獣になった時、再びこの場所に現れ、人を襲うなどする危険性も高いと判断し、猟友会などと話し合って殺処分を決めた」

 うむ、正論である。一見は。だがこの理屈が正しいとするなら、全てのツキノワグマを一匹残らず抹殺しなければその危険性は無くせないだろう。つまり日本のツキノワグマが絶滅するまで殺し続けるという宣言にも等しいのだけれど、それを理解しているのだろうか。

 すなわち、日本で行われている猟というのは、基本抹殺なのだ。天然資源を管理するなどという難しいことは考えず、ただ殺して行く。その結果として日本列島固有種の動物が絶滅しても仕方ない、というわかりやすい方針である。

 いや、数の管理は考えている、現に今回も母熊は殺さなかった、と主張する声もあろう。確かに母熊が生きていれば小熊はまた生まれる。だがその新たに生まれた小熊を連れて母熊が人里近くに降りてきたらどうする。今度は親子揃って殺すのであろう。

 誤解の無いように書いておくが、自分は人に危害を与える危険性のある熊を殺すなと言っている訳ではない。ツキノワグマであれヒグマであれ、人間に危害を加える蓋然性が高いのであれば、射殺はやむを得まい。

 ただ今回のことに限定すれば、小熊さえ放せば母熊は山に戻っていった可能性があった。ならば麻酔銃という選択肢があっても良かったのではなかったか。麻酔銃を使わなかったのは何故か。それは最初から現場に持って行っていなかったからではないのか。そんな必要性など、最初から考えていなかったのではないのか。まず射殺ありきで現場に向かったのではないのか。

 小熊を殺したのは労力と反撃される危険性を考慮してのことだろう。罠にかかった小熊なら、一発で間違いなく仕留められる。話が早い。それだけの理由だったのではないか。楽をするなと言うつもりはない。猟友会のメンバーの身の安全も大事である。それでも、だ。

 日本の役人には、野生動物が資源であるという感覚がない。邪魔者としか思っていない。だから平気で雑木林を切り払って杉の木を植えたりする。森を切り開いて太陽光パネルを並べたりする。そこに暮らす動物の生態系のことなどまったく考慮しない。「そんなことは国立公園でやれば良い」それが本音であろう。だが自然界の循環は、人間の勝手に決めた境界線の内側で完結するものではない。

 日本は今後、観光で生きていかねばならない。工業系の産業は多くが衰退するかも知れないからだ。なればこそ、国家ぐるみで自然環境を整備する必要がある。観光資源の管理を、市町村レベルで徹底することが求められる。嫌でも野生動物と共存するしかない。もうそれしか道はないのである。

 我々は意識を変えねばならない瀬戸際にいるのだ。そしてその変える基準になるのが「人道」や「人の心」だ。それらを無視して管理された環境は、ただの箱庭に過ぎない。観光客の心を掴まない。それでは意味がないだろう。命はなるべく大切に。そんな当たり前のことが、仕事として求められる、そんな時代に生きているのだということを、我々は理解すべきなのではないか。


 この時期、各大学がオープンキャンパスを開いているらしい。自分には縁が無かったのでこの類いの行事には行ったことはないのだが、面白そうだなとは思う。

 さて、このオープンキャンパスには大学生になることを考えている高校生が大勢参加している訳であるが、最近は保護者同伴で来る高校生が増えているという。まあ親は最も身近な人生の先輩であるし、そもそも金を出してくれるスポンサーなのだから、進路についてまず親に納得してもらうというのは当然の考え方なのかもしれない。ただ、いつまでそれを続けるのかは考えておいた方が良いだろう。

 人間はいつまでもどこまでも親の納得の上で生き続けるという訳には行かない。いつかどこかで、親の意見を無視し、自分だけの納得の上で何かを決めなければならない日がやって来る。それがいつになるかである。

 大学受験はまだ早いと思うかも知れない。しかし就職試験に保護者同伴というのは、やめておいた方がいい。決断を親に頼る者に仕事を任せろというのは無茶な話だからだ。企業はそんな学生を採用してはくれない。

 とは言え「独り立ち」がいきなり就活というのも大変だ。だからそこに至る前に、何か小さなことでいいから、親に頼らず自分で選び、自分で決断してみた方が良い。大学生なら少々の失敗も許されよう。いずれ親離れはしなくてはならんのである。自分のためにも親のためにもチャレンジしてもらいたい。


 一昨日イギリスのビッグベンが修復のため4年間鐘の音を止めることを取り上げた。そこでいまどきビッグベンの鐘の音が止まって困るイギリス人はいないだろう的なことを書いたのだが、いた。テリーザ・メイ首相を初めとする国会議員たちが、「4年間は長すぎる」と改修計画の再考を求めたのだ。まったくイギリス人というやつは。

 ビッグベンの鐘は、118デシベルの音を鳴らすらしい。それがどの程度大きな音なのかは知らないが(飛行機のエンジンの近くで120デシベルだそうだ)、ともかく工事に携わる作業員の聴力にダメージを与える懸念があるという。壊れた原発の廃炉作業でもあるまいに、そんな危険な環境で作業員を働かせる訳にも行かんだろう。今後のことも考えれば、4年間の停止もやむなしではないかと思うのだが、それはイギリスでは許されざることらしい。

 まあ歴史を重んじる国ではあるし、観光客の数に影響があるかも知れないとなれば、金の問題も絡んでくる。担当の委員会は「鐘の停止期間について検討する」と述べたのだそうな。何とも厄介な話である。

※ 先般も北海道で街中に出て来たヒグマが射殺されました。繰り返しになりますが、これはやむを得ない事でしょう。この事を非難するのはおかしな話です。ただ実際に人里に出て来た訳でもないクマは、殺す必要はないと思うのです。野生動物を含む自然は、資源であると考えるべきで、キチンと管理しなければなりません。その管理には、人間側の行動の管理も含みます。たとえば野生動物への餌付けは厳しく禁止されねばなりません。また、「登山道にクマが出るから駆除しろ」なんて話が聞こえてきたりもしますが、それは論外です。自然は資源であり、国民全員の財産です。登山客だけのために毀損して良いものではありません。人間が無理して立ち入らなければ維持できる自然は、維持すべきだと考えます。それは未来のこの国に暮らす子孫に対して残せる遺産なのですから。

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