二年前の日記6/20

2017/06/20

 18日、フランスでは下院選挙の決選投票が行われ、マクロン大統領の率いる「共和国前進」および同盟関係にある「民主運動」の合計獲得議席数が、定数577議席の内の圧倒的過半数、300議席を上回る見通しとなった。ただ、決戦投票以前には400議席以上を獲得するのではないかと言われていただけに、ちょっと期待外れの感がある。しかしまあ、それでも安定多数である。これでフランスの政治が安定してくれれば何の問題もない。

 なおBBCの報道によれば、マクロン大統領が選挙中に掲げた主な政策は以下の三つだという。

・財政支出を今後5年間で600億ユーロ(約7兆4500億円)削減

・公務員の数を12万人削減

・労働市場や公務員の手厚い年金制度の改革で、官民格差を解消

 正直言って、斬新さはない。どこの国の国政選挙でも見かけるような政策である。それだけに普遍的に深刻であるとも言える。特に上二つ、財政支出の削減と公務員の削減は日本でもお馴染みの選挙公約であるが、成功した試しがない。公務員の採用を絞って数は減らせても、人手不足で仕事が回らない弊害が出ている。確かギリシャでも公務員の削減話が出たことがあったように思うのだが、どうなったのだったか。

 支出の削減は日本でもやろうとしたけど、結果いまどうなっているかといえば、赤字国債の大量発行である以上、これも失敗していると考えるべきだろう。公務員の年金制度改革も、その実務を行うのが公務員である以上、スムーズな進展は期待できない。ていうか、人数削減して年金も薄くする、なんてことされて、公務員が大統領に忠実に働いてくれると思う方がどうかしている。リーダーシップだけでどうにか出来る話ではない。公務員にだって夢もあれば希望もある。人生計画もあって公務員になったのだろう。それが崩されるというのだから、抵抗するに決まっている。国会では通過できても現実の世の中には適用できないことが多々起こってくるだろう。前途多難である。


 現在のこの世界における、難民・避難民の合計が、過去最高の6560万人に上ったと国連難民高等弁務官事務所が発表した。もの凄い数である。イギリスの人口より多いらしい。BBCの報道によれば、難民高等弁務官はこう語る。

「より豊かな国が拒否するのなら、資源がずっと限られたアフリカや中東、アジアの国々に何百万人もの難民を受け入れるよう、どうやって求めることができるのか」

 正論である。正論であるとは思う。思うのだが、国連に言われる筋合いはないのではないかという気がしないでもない。人道的という観点に立てば、より経済的に豊かで余裕のある国が難民を迎え入れるべきであるのかもしれない。しかし、だ。「軒を貸して母屋を取られる」の例えもある。難民を受け入れて国内が不安定化し、あらたな難民が発生したときに、国連は何をしてくれるのか。難民の受け入れ国を捜してくれる? それでは話にならない。

 そもそも大事なことは「難民・避難民を出さない」ということであり、それは国連の仕事であろう。国連が難民を増やしてどうするのか。難民・避難民の方々には同情する。彼らに手を差し伸べるのは、国際社会の責務であろうとは思う。しかし、安定している国家を不安定化させてはいけない。不安定化した国を安定させることに尽力する方が建設的であろう。

 そのために必要なのは、基本的人権とか自由とか平等とかいった西側諸国の錦の御旗ではない。それを押しつけている間は難民は増え続けるのだ。中東には中東の、アフリカにはアフリカの、歴史があり伝統があり、良く言えば人々をつなぐ、悪く言えば人々を縛る、文化や独自のルールがあるのだ。まずそれを可能な限り尊重してみてはどうだろう。

 もちろん人の命に関わってくることなど、譲れない部分はあるだろうが、独裁者はとにかく倒す、とか、イスラム原理主義はとにかく叩く、など、敵を増やせば難民も増えるのは当然である。とにかく冷静になって、すべての国が半歩下がって、難民・避難民の数を減らすことで協調してみることはできないのか。そしてそれは国連が主導するべきことではないのか。先進国に「難民もっと受け入れろ」と言う前に、やるべきことがあるはずだ。国連には頑張って欲しい。自分は日本の難民の受け入れは、現状通りで行って欲しいと思っている。


 19日、通常国会の閉会を受けて、安倍首相は記者会見を開いた。そこでは反省の弁も述べられた。巷では例によって「信用できない」という言葉が溢れかえっているが、なぜ総理大臣を個人的に信用しなければいけないのか理解できない自分には、何の感慨もない。総理大臣とは仕事であるから、それをしっかりこなせているのなら、別に自分の友人に便宜を図ったとしても文句はないし、仕事をこなせていないのなら、どれだけ清廉潔白でもクビにするべきである。会社員は自分とこの社長や会長を人間的に信頼などしなくても問題はない。首相も同じではないのか。

 安倍首相は首相としてどうなのか。まあ問題はあるだろう。これを言うと性差別ではないかという声が上がりそうなので、あまり大きな声では言いたくないのだが、防衛大臣とか防衛大臣とか、あと防衛大臣とか、役に立たない無能を内閣に配置している問題は、早急に解決すべきであろう。

 しかし熊本地震で官邸の対応が遅れて被災者が倍増したなどということはなかったし、プーチン氏には歯が立たなかったとは言え、外交でもポイントは稼いでいる。サミットで他国の首相と「普通に接している」だけでも、小泉首相より前のことを思えば大したものではないか。日本の首相とは長らくそういうものだった。そうでない首相というだけで安倍首相は異例である。その点は評価すべきだと思う。

 民主党の蓮舫代表は、NHKの取材に対し、加計疑惑における国民の最大の関心は「規制を突破したら、その穴を通れるのは総理大臣のお友達だけだった」という点にあると答えているが、本当にそうだろうか。

 国民が一番関心があるのは、結局のところ安倍首相が「いくら儲けたか」ではないのか。自分に利益を誘導せず、ただ友達のために骨を折っただけならば、それは確かに公人としては問題はあるものの、一言で言ってしまえば、単なる「いい人」ではないか。それではスキャンダルとしては弱いだろう。自分の友人に有利になるように取り計らった結果、いくら儲けたのか、どれだけの利益を受けたのか、本当の問題はそこである。なぜそこを突かないのか。なぜマスコミも野党もその数字を出さないのか。それとも出せないのか。出せないのであれば、森友の件もこの件も自分的にはどうでも良い話である。

 首相がお人好しで公私混同が激しいからといって、だから何だと言うのだ。そのために国が傾いたと言うのなら話は別である。しかし現実として加計問題で国は傾いたのか。確かに騒ぎにはなった。本来ならその何倍も騒がねばならないはずのフィリピンのIS問題を放置して、マスコミは大騒ぎをしまくった。で、だからどうした。それで世の中が動かねばならないと思う理由はいったい何だ。自分にはさっぱり理解できない。自分に理解できるのは、「自分たちが騒いだのだから世の中は変わるべきだ」と考えている人々が一定数いるということだけだ。もちろん、「自分たちは理由もなしに騒いだりしない」という声もあろうが、それは「理由さえ見つけられればすぐに騒ぐ」という事実の裏返しである。そのことと、世の中が変わるかどうかはまた別の話である。

 言うまでもないことかもしれないが、自分は世の中が変わることに否定的な見解を持っている訳ではない。世の中は変わるべきだ。しかしそのために首相をスケープゴートにしても良いという話ではない。いま騒いでいる人々は、首相が替われば世の中が変わるとどこかで思っていないか。断言するが、それは幻想である。

 いったいこれまで日本に何人の首相がいたと思う。何度首相が替わったと思う。自分が生きてきた中だけでも、政権交代が二度起きている。「自社さ連立政権」を含めれば、この三十年で自民党以外から首相が出たことは六回ある。それで何が変わった。首相が替わっただけで世の中が変わったことなど、これまで一度としてなかった。なぜ今回は変わると思えるのか、自分には不思議でならない。

 世の中を変えるために必要なのは、首相の交代ではない。国民一人一人の意識の変革である。それなくして社会の変革はない。首相を何度取り替えようと、何度政権交代を繰り返そうと、国民に変わるつもりがなければまったく無意味である。単なるフラストレーションの解消以上の価値はない。首相の交代は変革のシンボルたり得ない。それがこの国の歩んできた歴史であり、厳然とした事実ではないのか。やれ疑惑だ疑惑だと騒いでいるそのエネルギーを、社会の変革のために使えば少しは変わるはずなのに、なぜその方向に向かないのだろう。社会からはじき出された自分には、本当に不思議で仕方ない。

※ 安倍首相を替えるな、と言いたい訳ではありません。替えるだけでは意味がない、と言う事です。安倍首相を引きずり下ろしたところで、日本がいまより自由になったり豊かになったりはしません。それを前提として未来を考えるべきです。
 難民の数は7000万人を超えたと国連が発表しています。これより国民の数の少ない国などごまんとあります。もうどこかに新しく国家でも建設しない限り、全員を収容する事など不可能でしょう。とにかく受け入れろ、では何も解決しないと思うのですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?