二年前の日記 4/19

2017/04/19

 イギリスのメイ首相は2020年に行われる予定だった総選挙を前倒しし、今年6月に行う意向を表明した。EUからの離脱(いわゆるブレグジット)交渉の方針について、国民に信を問いたいのだそうな。しかし国民投票それ自体が、EUからの離脱という方向性に対して国民に信を問うものであったはずだ。その結果は出たはずである。今更何を問おうというのだろう。

 イギリスは二大政党の国である。現与党は保守党であり、労働党が野党である。国民投票の結果として決定されたブレグジットについて、野党労働党が政権を攻撃している。より正しくは、選挙を経ずに首相となったメイ氏――メイ氏は前首相にして前保守党党首キャメロン氏の引責辞任を受けて保守党党首に、そして首相に就任した――に対し、ブレグジットを指揮する資格はないと噛みついているのだ。その野党のギャーギャー騒ぐ口を封じてやりたい、というのが選挙を行うに当たっての本音らしい。ちなみに有権者からのメイ首相の支持率は50%ほど、対する労働党のコービン党首の支持率は14%ほどだそうだ。日本よりは大分マシである。

 まあイギリスは先の国民投票の結果、社会が真っ二つに分断された経緯がある。もしかしたらそれを解消したいという気持ちもメイ首相にはあるのかもしれない。だが当然、選挙の結果いかんによっては対立の溝が深くなる可能性だってある。危ない賭けのような気もするのだが、大丈夫なのだろうか。

 しかしどんな結果が出るにせよ、国民が国家の命運を握れるというのは民主主義の成熟した国らしい。お上意識の強い日本では、まだここまでのことはできまい。日本で国民投票が行われるとしたら差し当たって憲法の改正くらいだろうが、国民の関心という点においては社会を分断するほどのことにはならない気がする。投票率も低そうだ。もちろん分断することが良いことではないのだが、もう少し自分たちの未来に真剣になっても良いのでは、とは思う。


 国民投票といえば、この15日、トルコにおいても行われた。エルドアン大統領の権限を拡大し、議院内閣制のお飾りとしての大統領制から、アメリカ型の強い権限を持った大統領制へと政治体制を変えることを認めるかどうかの国民投票であった。結果大統領派が僅差で勝利し、エルドアン大統領の権限拡大は信任された。

 しかし、それに疑問を投げかける声がある。まず当然、野党勢力はこの結果に反発した。不正行為があったのでは、と主張したのだ。この意見を、欧州評議会から派遣された選挙監視団が後押しした。最大250万票に不正操作の疑いがあると批判したのである。また、平等で公平な選挙ではなかったとも指摘している。

 だがEU加盟交渉をしているとはいえ、まだ加盟国でもないトルコになぜ選挙監視団が派遣されているのだろう、と思ったら、トルコは欧州評議会には参加しているのだそうな。

 欧州評議会とは、外務省によれば、「人権、民主主義、法の支配の分野で国際社会の基準策定を主導する汎欧州の国際機関」として1949年に設立されたらしい。EUとはまた別口なのである。ちなみに日本は欧州評議会にオブザーバーとして参加しているらしい。ユーラシア大陸を挟んだ反対側の国のくせに、いっちょかみであるな。

 で、その欧州評議会の選挙監視団から批判されたエルドアン大統領は激怒し、「分をわきまえろ」と言い放ったという。

 これ、トルコはどうしたいのだろう。EU加盟交渉はまだ継続するつもりらしいが、どう考えてもEUに加盟できる目は、エルドアン氏が大統領でいる間はないように思える。また、エルドアン大統領は、死刑制度の復活も国民投票で決めたい意向があるらしい。EUは死刑制度廃止が原則である。つまりどんどんEUからは離れて行っている訳だ。

 トルコがEUから離れるとすれば、その先に何があるのか。待っているのはロシアくらいのものではないのか。けれど今更ロシアに接近したとして、何が得られよう。金はない。トルコはロシアからエネルギーや鉄鋼を輸入しているが、それが安くなったりするのだろうか。輸入量を増やせと言われるだけのような気がする。軍事では支援を受けられるかもしれないが、国が乗っ取られる危険性と隣り合わせの支援である。さすがにトルコもそこまで馬鹿ではあるまい。

 そう考えると、EUと距離を置こうとするかのごとき今のトルコの政策には、首をひねるばかりである。まさか北朝鮮のように世界から孤立したい訳でもあるまいし、いったいどこを目指しているのか。日本にとってのトルコは歴史ある友好国である。あまり変な方向に進まないでいてくれると嬉しいのであるが。


 ISに奪われたイラク第二の都市モスルを奪還すべく、イラク正規軍を中心とした勢力が侵攻を開始したのは昨年の10月16日。ちょうど半年ほど前である。最悪の場合6ヶ月程度はかかるかもしれない、そう言われていた作戦は、半年たった今、まったく終わる気配を見せていない。

 この半年でモスルから逃げ出した市民の数は50万人弱、しかしまだモスル西部には、さらに50万人の市民がとどまっていると言われる。だが現段階で既に、国連の当局者は「我々の支援活動は限界に達している」と訴えているのだそうな。

 確かに50万人はもの凄い数である。現場のスタッフ一人当たりが担当する人数がとんでもない数になるはずだ。とても一人一人のケアなどできまい。それは理解できる。しかし、国連は国家に相対する組織ではないか。あるときは国家に対して勧告し、あるときは国家に対して援助し、あるときは国家に対して非難決議を出す。すなわち国家に対して指導的立場に立つのが国連のはずであろう。それが実際には避難民50万人で活動の限界に達してしまう。

 繰り返しになるが、50万人はもの凄い数だ。もし日本に一度に50万人の移民がやってきたら、大パニックとなることは必定である。政府は機能不全を起こし、とてもすべてを捌ききれないに違いない。しかしこれまた繰り返しになるが、国連は国家を指導監督すべき組織である。現在国連加盟国は193カ国だそうな。つまり193の国の政府が知恵と力を持ち寄っているのだ。「三人寄れば文殊の知恵」と言う。1国では解決できないレベルの問題でも、193カ国の知恵が機能すれば解決できるのではないのか。そうあるべきではないのか。そのための国連であろう。50万人の安全を保証できない組織に、どうして何千万、何億の国民を抱える国家を相手できようか。

 要するに、機能していないのだ。国連は、本来持つべき力を持っていない。為すべきことが為せない組織となっている。それは今に始まったことではあるまい。アメリカとソ連がパワーゲームを繰り広げていた頃には既にそうだったのかもしれない。だったら仕方ないのか。それで良いのだろうか。

「大男総身に知恵が回りかね」とも言う。国連は大きくなりすぎて身動きが取れなくなっているのかもしれない。もはや分解再構成も視野に入れた大規模な改革が必要なのではないか。今回のモスルのように国家政府が国民を保護する力を失い、国連しか頼りにできない状況になったとき、その頼みの綱の国連がこの有様では、ただただ悲惨としか言い様がない。これは決して他人事ではない。中東のイラクでしか起きないことではないのだ。日本がいつこのような状況にならないとも限らない。もうそろそろ国連はいかにあるべきか、いかにあらねば我々は困るのかを日本人も真剣に考えておくべきではないかと思う。


 昨日Twitterで、こんな内容の言葉を読んだ。

「核保有国同士の戦争などあり得ない。そんなものが起こるのなら、抑止論そのものを見直さねばならないではないか」

 確かに、核抑止論が絶対的なものであるなら、そうかもしれない。ただ、人の世の歴史というのは「あり得ないこと」の連続ではないのか。あり得ないことを発見したから文明は発達し、あり得ないことが起きたから歴史は動いたのであろう。この世界は、「あり得ないことが絶対に起きない世界」ではない。その時点においてあり得ないことであっても、起きる場合がある世界なのだ。国家は人間の集合体であり、そして人間とは理屈通りに動いてくれない生き物である。あり得ないことは起こることなのだ。まったく、厄介な厄介な。

※ このときのメイ首相の賭けは、事実上失敗に終わったと見て良いのでしょう。なんとか政権与党の座は守りましたが、議席を減らしてしまいましたからね。それが現在のグダグダ状態に拍車をかけています。
 トルコはエルドアン大統領への権力集中がいまも進行中です。果たしてイスタンブールの選挙結果がひっくり返されるのかどうか。ひっくり返されそうな気がしますけどねえ。
 イラクのモスルは、この後7月10日に勝利宣言が出されます。9ヶ月続いたのですね。そして12月には、イラク全土をISより解放したと宣言されます。もう二度とこの悪夢が繰り返されない事を祈るばかりです。

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