星食いリアロー 2

第2話 学校で

 僕はもう三年生だ。一人でご飯を食べられるし、一人でお風呂にも入れる。一人で服も着られるし、一人で眠れる。だいたいのことは一人でできる。パソコンだってタブレットだって使える。僕のことは何も心配しなくていいんだ。

 タブレットでインターネットの動物図鑑を開く。最初のページにはライオンの写真がある。でも僕の知りたいのはライオンのことじゃない。クジラのページを開くと、五十音順にクジラの仲間の名前がならんでいる。アカボウクジラ、アマゾンカワイルカ、イッカク、イワシクジラ、インドカワイルカ、オキゴンドウ……ならびの最後のほう、ヤ行のクジラはヨウスコウカワイルカだけだ。ヤトウクジラの名前はない。ザトウクジラのページならあるんだけど。まあ、ないものはしかたない。今日はもう寝よう。明日も学校があるんだし。あ、まずい。宿題があるんだった。急いでやってしまおう。


 朝からミンミンとセミがうるさい。それに暑い。ちょっと寝不足だったのに、いつもより早く目がさめてしまった。朝ご飯を食べながらテレビを観ていると、天気予報は晴れマークだらけだった。東京の最高気温は平年よりも五度も高いらしい。それに比べれば長野は涼しいみたいだけど、暑いことには変わりなかった。

「行ってきます」

 ジリジリと暑い道を歩いて、僕は学校に向かった。僕のかよう小学校は、全校生徒が108人。三年生は17人で一クラスだった。校門の前にまでたどりついたとき、僕の後ろにぬっと大きな影が立った。

「おい、佐倉」

 フジミが声をかけてきた。フジミは漢字で書くと『藤美』なのだけど、本人はこの苗字がとてもキライらしく、テストの答案用紙にはいつも『不死身』と書いて先生に怒られている。小学三年生なのに、身長は160センチを超え、六年生でもフジミより大きな人は少ない。ケンカも強く、上級生の誰とケンカした、なんて自慢話をよくしている。そんなフジミが、ニヤリと笑った。

「おまえ、宿題やってきたか」

 僕は正面からフジミと目を合わせた。

「やってきたよ」

「じゃあ見せろよ」

「やだよ。自分でやればいいじゃないか」

「うるせえ、いじめるぞ」

 僕はひとつ、ため息をついた。

「あのさ。いじめるときに、いじめるぞ、って言うヤツはいないから」

「え、そうなのか」

 フジミは意外そうな顔をした。

「そうだよ。いじめっていうのは、何も言わずに叩いたり、けったり、お金を取り上げたりするもんなんだよ」

「けど、そんなのインケンじゃねえか」

「そりゃそうだよ、いじめっていうのはインケンなものなんだから」

 フジミはしばらく悩むような顔をすると、こう言った。

「じゃあ、いじめるのはやめてやる」

「そりゃどうも」

「だから宿題見せろよ」

「だからいやだって」

 そのとき、フジミの背中の向こうに、ピンクのランドセルがちらりとのぞいた。

「あんたたち、朝っぱらから何をバカな話してるの」

 フジミの後ろから聞こえてきた声は『ヒミコ』だ。本当の名前は日高文子というのだけど、いつも悪い女王様みたいにツンツンしているから、みんな陰ではヒミコって呼んでる。ヒミコのお父さんはどこかの船の船長らしい。何でそれを知ってるかと言えば、ヒミコはなにかあるたびに、お父さんの自慢話をするからだ。

「男のくせにおしゃべりなのね。うちのお父さんとはぜんぜん違うけど」

 ほら、こんな感じで。

「うるせえ、ほっとけ」

 フジミが言い返すけど、あんまり強くは言えない。女の子を怖がらせるなんて、カッコ悪いとフジミは思っているらしい。だいたいヒミコはクラスで一番背が低い。フジミのおなかのあたりにヒミコの頭が来るくらい、身長の差がある。そんな小さなヒミコをいじめるようなマネができるほど、フジミは乱暴じゃなかった。

「ほっといてほしかったら、道のまんなかでおしゃべりなんかしないでね」

 フジミの気持ちを知ってか知らずか、ヒミコはツンと鼻を上に向けて通り過ぎていった。それを見て、他の学年の子たちがクスクス笑う。

 その笑い声の向こう側、道のすみっこを、濃い紫のランドセルが歩いていく。いつの間に僕らを追い越していたんだろう。忍足ここの。リアローよりも変な名前。初めて聞いてすぐ覚えたほど、覚えやすい名前だけど、その名前で呼ぶのは先生だけだ。クラスのだれもが『忍者』と呼んでいた。実際、いつもどこにいるのかわからない、本当に忍者みたいなやつだった。女子だから『くのいち』って言う方がいいのかもしれないけど、髪の毛も短いし雰囲気も男っぽい。スカートをはいてるけど、やっぱり忍者は忍者だった。


「はい、朝礼をはじめまーす」

 よしむーはいつも通り、チャイムが鳴るのと同時に教室に入ってきた。吉村先生は25歳で彼氏は募集中だ。いつも通りジャージを腕まくりして、いつも通りトレードマークの四角いメガネをくいっとあげた。

「今日は水泳の授業があります。水着忘れた人はいませんか。基本的に全員参加ですが、どうしてもプールに入れない人は、先生に言ってください」

 この暑い時期、水泳の授業なんてみんな楽しみにしてるんじゃないだろうか。でもいろんな事情で水泳ができない子もいるらしい。たいていは大人の都合みたいだけど、病気の子もいるから、あんまり勝手なことは言えない。

「あと、風邪がはやっています。うがいと手洗いは忘れないように。プールの後はすぐ体をふいて、冷やしすぎないようにしてください。基本的に予防が大切です」

 何が基本的なのかはよくわからないけど、「基本的に」はよしむーの口ぐせだ。

「先生はビキニ着ないの」

 誰かがからかうように言うと、クラス中が笑った。

「残念ですが、基本的に先生のビキニを見るのは、君たちには十年早いです」

 よしむーはそう言うと、メガネをくいっとあげた。


 水泳の授業は三時間目、僕らは一人の欠席もなく、全員プールの端に並んだ。よしむーはホイッスルを手に、こう言った。

「今日の授業は、基本的に課題はなにもありません。自由に泳いでください。ただし」

 よしむーの目が、僕を見た。

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