二年前の日記 8/21

2017/08/21

 本日は特に書きたいニュースもない。ならば素直に休めば良いのだが、何だかそういう気分でもない。だからウルトラマンレオの話でもする。だからの意味がわからないが。

『戦え!ウルトラマンレオ』は特撮ドラマ『ウルトラマンレオ』の二代目の主題歌である。初代主題歌の『ウルトラマンレオ』が人気のある歌であるため、その陰に隠れているというか、ちょっと残念な子扱いされることがある。だが、断言する。『戦え!ウルトラマンレオ』は名曲である。何より歌詞が素晴らしい。この曲の作詞は天下のヒットメーカー阿久悠氏。やはりさすがと言うべきか。

 ではこの曲の歌詞のどんなところが素晴らしいのだろう。昭和のウルトラマンシリーズの主題歌というのは、基本的にヒーローの紹介ソングだ。自慢のジェットで敵を討つのも、はるかな星が故郷なのも、怪獣退治に使命をかけるのも、銀河連峰はるかに越えてやってくるのも、そしてタロウがここにいるのも(そのままやな)皆ヒーローを描いた歌詞だ。ウルトラマンレオも初代の歌詞(作詞は同じく阿久悠氏)では似たようなもので、誰かが起たねばならぬとき、の誰かはウルトラマンレオのことである。だが、『戦え!ウルトラマンレオ』では少し違う。

「レオはそこまで来ている レオは怒りに燃えてる 赤い炎をくぐってやがてあらわれる」

 わかるだろうか。これは誰かに呼びかけている歌詞なのだ。では誰に。それは、ヒーローの登場を待ちわびている子供たちにである。ウルトラマンレオはもうそこまで来ている、だからもうすこしだけ待ってくれ、と。

 ただそうなると、小さな疑問が湧く。「レオは怒りに燃えてる」って、レオは何故怒っているのだろう。実のところ、この歌詞こそが虫けらの『戦え!ウルトラマンレオ』を名曲と断言する理由である。

 「正義の味方」という言葉を最初に使ったのは『月光仮面』の川内康範氏であるらしいが、それ以来誰が決めた訳でもないのに、ヒーローは正義の味方ということになってしまった。ではヒーローは皆正義のために戦っているのだろうか。それが良いことだから、正しいことだから戦っているのだろうか。違う、そうではない、とそれに否を突きつけたのが阿久悠氏であり、ウルトラマンレオである。すなわち、子供たちが巨大な困難や理不尽に対峙したとき、怒りを持って立ち上がる者こそがヒーローである、と彼らは高らかに宣言したのだ。

 ならば、自ずと「ヒーローの登場を待ちわびている子供たち」が誰なのか理解できよう。それは、物語の中で怪獣に襲われている子供たちであり、テレビの前でそれを観ている子供たちであり、そして、現実の社会の中で様々な困難や理不尽に遭い恐怖と不安に震えている子供たちである。その子供たちの前に、正義のためではなく、ルールや法律のためにでもなく、ただ純粋な怒りを持って立ち上がってくれるヒーローが必ず居る、だからもう少し待っていてくれ、そう呼びかける歌こそが、『戦え!ウルトラマンレオ』なのだ。

 だがそれは現実的だろうか。果たして現実の世界に、ウルトラマンレオに相当するヒーローがいてくれるのだろうか。そんなもの、いるはずがない、そういう声はあるだろう。だが実は現実世界にも、ヒーローは存在する。巨大化したりビームを放ったりはできないけれど、ヒーローは間違いなくいるのだ。それもたくさん。彼らは総称として、「大人」と呼ばれている。子供たちが困難や理不尽に遭遇したときに炎の向こうから駆けつけ、平和を壊す敵を叩き伏せてくれる、それが、それこそが子供たちの待ちわびているヒーローであり、子供たちの待ちわびている大人の姿なのである。

『戦え!ウルトラマンレオ』は冒頭と最後に同じ歌詞が入る。

「レオ!ウルトラマン!レオ!君の番!レオ!たたかえ!」

 君の番、の君は普通に考えればウルトラマンレオのことである。だがそれはすなわち、ウルトラマンレオという存在に凝縮された全ての大人たちのことではないだろうか。あんたの番なんだよ、阿久悠氏はこの歌を聞いている大人にそう言いたかったのかもしれない。


※ 普段から書きたいことを書き殴っていますが、この日は特に書き殴りたかったようです。まあ、ずっと書いていればこんな日もあります。

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