決定権と運命

〜してもいいし、〜しなくてもいいという言葉は、私の気持ちを楽にしてくれる。

例えば、
頑張ってもいいし、頑張らなくても良い。
結婚してもいいし、結婚しなくてもいい。
人を好きになってもいいし、人を好きにならなくてもいい。
といった具合である。

なぜ、こうすると楽になるかというと、
そう考えるだけで、自分に決定権があると感じるからだと思う。
上記で挙げた例の内容についてのいずれに関しても世の中は、前者であるべき、または、前者である方がいいという風潮があると思う。
つまり、頑張るべきだし、結婚した方がいいし、人を好きになった方がいいということである。

しかし、私は、頑張りたくない時があるし、結婚も出来ていないし、好きになれない人もいる。また、好きだった人を好きじゃなくなる時もある。
そんな時、そうあるべきであるはずなのに、そうでない自分に苦しくなる。
なぜ、苦しくなるかというと、自分に決定権がないと感じるからだと考えている。
だから、なんとか頑張らないといけないし、自分が結婚できる方法を探さなければならないし、好きになれない人をどうにか好きにならないといけないと思っている。
そういう風に考えている時、そうする以外の選択肢がないと思い込んでしまっている。
しかし、実際には、別にそうしてもいいし、そうしなくてもいいのである。
そうするのもそうしないのも自由に選択できるが、自分はあえてそうする、またはそうしないという道を選択しているのだと考えるのだ。そうすると、一気に窮屈な思いから抜け出せる。そうして起こる出来事に文句をいわず受け止める覚悟さえあればいいのだ。

大事なのは、自分が自分の人生の道を選択して歩んでいると感じることであると思う。

何かの実験でチームを2つにわけ、
どちらのチームにも騒音があるなかで、集中して物事に取り組んでもらうが、
1つ目のチームには、騒音を消すボタンがあり、いつでも騒音を消してもいいと指示し、
2つ目のチームには、そのような説明は一切せずに、つまり、騒音を消す方法はないという状態で作業に取り組んでもらう。
その結果、作業の集中力に差が出た。
どちらのチームもずっと騒音がなり続けていたが、消すボタンをいつでも押せる状況であったチームの方が圧倒的に作業に集中して取り組めたらしい。
同じ状況であってもそれを自分でコントロールできるかどうかで、精神的に落ち着いて作業できるかどうかが左右されるのである。
自分でコントロールできる、
すなわち自分に決定権がある方が精神的に余裕をもつことができることを実証できるような実験結果であるとおもう。

だが一方で私は、自分が選択する全てが運命で決まってしまっているのではないかとも思っている。
いつもは絶対しないような行動をその時はなぜかとってしまったということがたまにあるが、その行動は自分の意思で決定したかもしれないが、自分がそうした動機の発生は、自分でコントロールできるものではないと思っているからだ。

だから、人生を自分で選択、そして決定しながら、たまにこれが運命だと諦めつつも
精神的に余裕を持って生きていきたい。









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