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あり得ない日常#60

「わあ、こんなところがあるんだ。」

 日常の雑踏から逃げるように、少しばかりローカル線で内陸に向かうと同じ空の下とは思えないほどの自然が広がっていて、ようやく厳しい寒さから息を吹き返したかのように、木々も、そして生き物たちも試練を乗り越えた喜びを分かち合っているようである。

 噂には聞いていたが、山間にある有名な神社を囲むように広がる桜はそれは見事で、地元の人も、また観光の人も見わけが付かないくらいに、それぞれが鮮やかな春の景色を楽しんでいる。

 陽が落ちればまだ寒い時期だが、こうして陽が高いうちはむしろ少し暑いくらいだろう。

 この気温差には注意する必要がありそうだ。


 携帯電話なんてものが無かったほんの少し前までの時代は確かに不便だったが、その代わりそれ・・に囚われることもなかった分、心の自由はあったかもしれない。

 今となっては、連絡がつかないといった事態は携帯電話の充電を切らす過失、あるいは基地局の何らかのトラブルでつながらないといった要因でしか起こり得ないだろう。

 つまり、便利なものを手にした代わりに、常にコミュニティに鎖でつながれたような、昔あったはずの自由を差し出してしまったのかもしれない。


 そう思ったのは、電化されていない区間の路線。
二人並んでクロスシートに座り、街では決して見ることの無い景色を楽しみつつふと携帯電話を取り出すと、圏外とアンテナ1本の表示を交互に繰り返す画面を目にしたからだ。


 電車とは違い、ディーゼルで動く普通列車は行く先の駅ごとにことごとく停車をする。

 そのたびに開くドアから、その土地の空気を車内に取り込む。

 軽油が燃えた香りを混ぜながら。


 そうして降り立った山間の駅の周りには、知る人ぞ知る観光地らしく小さな商店が道沿いにあり、地元でとれた野菜や漬物が並んでいる。

 この空気だよな。

 コンクリートで囲まれたような街中で生きていると、たまに息苦しく思う事もある。

 まるで世界が違うかのような、ひんやりとしてなおかつ森の香りというか、本来人間はこうした自然の中で生き残ってきたことを思い出させてくれるような気がしてならない。

 思い切って誘ってよかった。

「ねえ、あそこでお団子売ってるみたいだよ。
あれ、水まんじゅうだって!」

 どうやら、お腹がすいているらしい。


 そろそろ初老に差し掛かった自分には、この景色と、そのもとで楽しそうにしている彼女は心にスーッと癒しをくれる。

 じゃあまずは、お茶を頂こうか。そう彼女に言うと「やったっ!」とまず一つ願いが叶ったような喜びようと、なんだかわくわくしているようだ。

 あれ、こんな人だったっけと思うくらいに、まるでこれまでとは全く違う一面を見せる彼女にむしろ驚いている。


 あの時、ストーブの前で抜け殻のようだった。

 あの時、思い切って自分の人生を終わらせに来て、なんだかんだで喫茶店で死んでほしくないという自分の願いを聞き入れてくれたあの時の彼女の姿とはまるで違う。

 彼女本来の魂の姿は今、目の前の彼女がそうなのだろうと思えた。


 目頭が熱くなる。

 あの時思い切ってよかった。

 彼女がこの世にとどまってくれて本当に良かった。


 年のせいか涙もろくなった気がする。

 お茶はしょっぱくないはずなのに。


 お目当てのお団子を頬張る彼女は輝いて見えた。


※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

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