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あり得ない日常#31

 風邪カゼ伝染うつされたくなければ、
風邪が蔓延まんえんしている場所にわざわざ近づかなければいい。

 嫌なことを言われたくなければ、
嫌なことを言われるようなことをしなければいい。

 続けたくなければ、
辞める権利を行使すればいい。

 空っぽな人間ほど、後がなくなると人の気持ちを考えろだの尊重しろだの抽象的な言葉に終始し、逃げるのはいつものパターンだ。

 逃げる場所があるだけよかったな。

 大したこと出来る器でもなく、あとは死を待つだけで、
他人にはああしろこうしろと、口だけは立派なクセにいいご身分である。

 その時が来たら周りはさぞスッキリするだろう。
待ち遠しいな。

 そう思うと、
それが実現するまでワクワクして待つ時間も案外楽しいものだ。


 新幹線の窓が、なじみ深い場所を映し出すといよいよ帰ってきてしまったと実感する。

 仕方がない、そのまま行こうか。

 携帯端末の電源を入れると、井上さんから不在着信がずらり。
留守番電話機能は使っていない。

 チャットを覗いてみると同じく井上さんの「何やってんの?」という感情にまみれた文章と、社長から一件だけ通知が入っている。

 予想した通りだが、この瞬間は緊張した。

 いよいよクビかあ。
まあ、いいや。

 明日からのんびりしようと考えを巡らせながら、
社長からのメッセージを開いた。

 「今日は事務所にいないから自宅までおいで。
そんなに遠くないよ。」
地図まで添付されている。

 いつもの駅からタクシーで5分くらいか。

 確かに、最後のけじめくらいはつけないとな。
退職願をこのままチャットで送るには気が引ける。

 もしかしたら、社長はそこまで読んでいたのかもしれない。


 社長には奥様がいて、小さなお子さんが2人と聞いている。
自宅というと、わたしはその家族団らんの中にお邪魔をするわけだが。

 緊張するが、いきなり怒られることはなさそうだ。

 キャリーバッグをタクシーから降ろすと、5階建ての古くは無いが築年数はありそうなマンションだった。

 オートロック式なので、エントランスで部屋番号を入力して呼び出しボタンを押す。

 すると、女性の声でどうぞーと明るく声がかかったかと思うと、自動ドアがすっと開いた。

 玄関の前に立ちドキドキしながら、また呼び鈴を押そうとすると、ガチャっと扉が開き、社長が3歳くらいの男の子を抱っこしながら顔を出す。

「来たね、さあ入って入って」

 思っていた展開と真反対の展開にわたしは言われるまま、そして流れるようにリビングまで通された。

 外が暗いと思ったら、夜は7時を回っていた。

 いい匂いがするなと思うと、リビングのテーブルには所狭しと料理が並べられている。

 奥様の手作りだろう。

「大変だったね、せっかくだから温かいうちに食べよう。」

 そうして、5さい!とはっきり自分の歳を教えてくれた息子さんに洗面所に案内されて一緒に手を洗う。

 こんな家庭に人生でまったく縁が無かったので、何が起こっているのかさっぱり理解できていなかった。

 中華と和食が特に得意だと言う奥様の料理は大変美味しく、毎日でもお願いできないだろうかと厚かましいことを考えるも、なんだか心が温かい空気に触れて目頭が熱くなる。

「おねえちゃんどうしたの?」

 ううん、なんでもないよと頭をなでると、ちょっと外の空気を吸わないかと社長にバルコニーへ誘われた。

 食器洗い乾燥機に食器をセットすると、察した奥様が子供たちに、さあ絵本を読もうかと声を掛けた。


「よくひとりで行ったねえ。」

 意外な展開に加えて、社長の意外な一言に驚いた。

「すごかったでしょ。
あそこはさ、もう長い事あのままなんだ。」

 今になって怖さが全身を走った。
泣くのは女がすたると思ってがまんしていたのに。

「ごめんね。
偉そうに社長といっても全部できるわけじゃ無くてさ。」

 社長がリビングのハンドタオルを取ってきてくれた。

「今、会社の株を上場しようと取り組んでいてね。
君ならさ、あの設備が役に立っているかどうかわかるでしょ。」

 確かに。
珍しい物ばかりだったが、実際役に立つかと考えるとそうではない。
時代に取り残された、まるでタイムスリップしたようだった。

 人間も含めて。


「場所は良いんだよなあ。
通信設備は更新され続けているからね。」

 雲の合間から星がちらほら見える空を一緒に見上げる。

 社長、申し訳ありませんでした。と向き直って伝える。
続く言葉を遮るように社長が口を開いた。

「どうして?
別に何も悪いことしてないじゃないの。」

 わたしはさっぱり状況が読めなくなった。


「彼らは決して悪い人間じゃあないとは思う。
でも強いて言えばズルいんだ。」

 そのまま続ける。

「私にも報告があってね。
 『今日来たあいつは無礼だ、態度が悪すぎる。
  少なくとも先輩として注意をした。』
だってさ。」

 社長が少し笑った。

 わたしは何があったのか、
すべてを最初から話そうとするが、社長が続ける。


「彼らは私に嘘をついた。
これでようやくけじめをつけることが出来る。」

 どういう事だろう。

 不思議に思うわたしを見て、社長がまた笑った。

「言ったでしょ。
通信設備は最新なんだって。」

 もしかして。

「そう。
エレベーターから事務室まで、すべて監視カメラでモニターできる。
彼らは音は拾われていないと思っていたようだね。」

 音は物体から振動を発して空気中を経て相手に伝わるものだ。
確かにマイクはついていないが、物体が発する振動を解析できる。

 つまり音はもう、マイクで拾う必要が無いのだ。
発振源さえ撮影できていれば十分なのである。

 彼らは、見られているものは映像だけだと思っていたようだが、残念ながら会話もすべて筒抜け、記録も第三者である警備会社に一部始終が残されていて、報告を受けた時にはすでに本社が把握を済ませていた。

 わたしが泣きながら一部始終を話す必要は無くなったという事だ。


「彼らは全員処分する。」
社長にしては珍しく語気を荒げた。

「せっかく、以前の労働法制の権利を持ったままだったのにね。」

 最低給付保障制度ベーシックインカムが創設されて以来、いわゆる正社員雇用や解雇に関する規制は撤廃された。

 企業は採用しやすくもなったし、即日解雇も可能になったのだ。

 ただ、移行期間としてそれまでの雇用契約は尊重されるという形ではあるが、今なお残っているケースが少なくない。

 尊重規定にとどまるので、業績が悪い会社は退職金をいくらか支払うことで即日解雇を可能にしている。

 給料は民法上の契約という形で支払われる仕組みとなった。


「今取締役が、何人か引き継ぐチームを連れて向かってるよ。
これまでの業務が適切だったか調査も指示したから懲戒解雇だろうね。」

 わたしはすっかり、社長の言葉に耳を傾けるだけの案山子かかしのようになっていた。

「おねえちゃんあそぼー」

 リビングと仕切る重いガラスのサッシを小さな手で押しのけながら、そう声を掛けられた。

「ああーよかったら遊んでくれるかなあー。
もう、後の事は心配しなくていいから。」

 わたしはこの社長になら、ついて行こうと心に決めたのだった。

 この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

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