あり得ない日常#29
礼節を語るのであれば、例え誰が見ていなくとも、形なきものにも礼を尽くしたいものだ。
さもなくばただの見せかけ。
そう言えるオレスゴイ、そういうただの嘘に他ならない。
一端の人間かどうか立派に品定めできるくらいにお前はエライのかとついつい笑いたくなってしまう。
わざわざ周りが口に出して指摘してあげるまでも無いだけに過ぎない。
裸の王様も立派に出来上がったものだ。
人間空っぽだと年齢や経歴、そして肩書や立場に頼りがちだから気をつけなければならないな。
さて、今日は近所の神社にお参りをしている。
すっかり夏になって、うだるような暑さではあるが、誕生日が近くなるとこうして近所の神社にご挨拶に伺うようにしているのだ。
日差しはちょうど雲に遮られて地面まで届いてはいない。
日中は正午を過ぎたあたりであって、明るくはあるものの、日焼けを気にするわたしにはちょうどいい。
手水舎からちょろちょろと水音が心地よく、その音を背景に神前、敬礼を二回、柏手二回、そして敬礼を一回、目線を下に日ごろのお礼を申し上げる。
年末年始に伺いたいところだが、あまり人が多いのは苦手なので、時期を外して伺う事にしているのだ。
ご存じだろうか。正月の正は一であり、すなわち一月の事を指す。松の内は正月の十五日までをいう。
その間にお参りをするようにしている。
おみくじを引きたいのもあるし。
今年は吉を引いた。
話によると、この神社のおみくじには凶みくじがあるらしい。
どんなことが書いてあるのか気になるが、できれば手にしたくはない。
うーん気になる。
その欲求を満たそうと思うとスッキリはしそうだが、その先の一年をモヤモヤしながら過ごさないといけないかもしれない。
おみくじとは、そのなじみ深さと見た目の微笑ましさとは裏腹な、実はシビアで酷なシステムなのかもしれない。
なんてことを考えていると、ぱらぱらと小雨が降ってきた。
今日は雨が降る予報はなかったはずだが、
少し社務所の軒下で雨宿りをさせてもらおう。
天気が良かったのに、急に雨が地面を濡らす。
独特な香りも、寒く無いこの季節だからこそ心地よく感じるから好きだ。
おみくじはまた年始の楽しみにとっておくとして、さてこの後どうしようかと軒下から空をのぞき込むと顔にちょっと冷たい雨粒。
誰かの幸せとは別に、誰かの不幸があるとすると、その両者すべてを足し合わせれば、この世界はきれいにゼロになるのかもしれない。
強引に、今生きているだけで幸せだと思う事も出来る。
それは間違いではなく素敵だと言えるのかもしれない。
しかし、強引であるという事は心のどこかでそう思ってはいないはず。
つまり、真に幸せだと思っているとはいえない。
どうしたらいいのか。
簡単だ。
自然に幸せだと、そう思える人間になればいい。
ポジティブな言葉を言うように、思うようにしましょうと言う。
それも同じだろう。
したがって、元来人間はネガティブだと言わざるを得ない。
ただ、それは決して悪いわけではない。
危機管理上必要なだけだ。
ただし、過ぎれば精神疾患へまっしぐらだろう。
ふと、自分もいつか見えない存在になるのかと考える。
その時は、せいぜいわたしを知る人物が、在りし日のわたしを想って手を合わせてくれるくらいだろう。
今の文明の前にもいくつか文明があったらしい。
あれ?じゃあ滅んだ人たちは一体どこへ行ってしまったのか。
たまたま幾多の命がその子孫へと受け継がれ続けて、一時は2億人の人口を誇った日本も、少子化の流れで明治時代水準の人口3千万人へと向かっている。
残りの1憶7千万人の魂は?
見えないだけで、共に存在していると考えたほうが自然かもしれない。
そのうちわかる事か。
真実ならば、生まれ変わる時は競争倍率が激しそうだ。
さて、今日は一粒万倍日で天赦日も重なった縁起のいい日だ。
ちょっとお年寄りくさい?
こう見えてわたしは占いに目が無い。
お金が現物で存在した時代なら、きっとお財布を新調しただろう。
自転車で少し行けば、ショッピングモールがある。ついでに青魚のお弁当を買ってくれば、今日の夕飯はそれでいい。
今は貧乏という概念も最低給付保障制度、いわゆるベーシックインカムが実現して無くなってはいる。
子供を作ればその分生活は楽になるが、それだけを当てに今生活をしてしまうと高度な教育を受けさせたいと思った時に出来なくなってしまう。
親元に居る、長くても18年間が勝負だ。
上を目指して海外旅行なり、高度な医療を必要とする大病に備えるなり、将来の選択肢を増やすために、たくさんの人が逃した運をわずかでも手繰り寄せてつかみたい。
そんなわけで、これからハンドバッグを買いに行こう。
鳥居をくぐり振り返って軽く一礼しては、やっぱり良い神社だなあと境内の立派な楠木を見上げた。
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