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あり得ない日常#2

 ドアのハンドルを握るとピッと電子音が鳴る。
そのタイミングでガチャっと軽く引くと、明らかに重そうな金属製のドアだが、そうとは思えない力加減で開いた。

 おはようございますーと中の様子をうかがいつつ挨拶の言葉をかける。

「あ、おはようー。」

 奥の窓の光を遮るように壁際からひょこっと顔を出して、少し年配の女性が挨拶を返してくれた。

 彼女は井上さん。
ちょうどコーヒーを淹れているところだったらしい。

 分譲マンションのような造りと間取りだが、ここは会社の事務所である。

 法人向けのサービスを業務としているため、一般の人が出入りすることはゲストを除いてほとんどない。

 また、来客対応用の事務所には社長がいて、そちらはモダンな内装になっている。採用面接のときに行っただけだ。

「はい、どうぞ、そろそろ来るだろうと思って」

 ありがとうございます、とお礼を言いつつ、いつも思う事がある。
それは、どういうわけか井上さんはいつも少しだけ何かとタイミングが良いこと。

 誰にでも何かひとつは秀でているものがあるという。彼女は間違いなく、そのタイミングの良さだろう。

 この会社はサーバーを調達して、独自に開発したソフトウェアを入れ込み、一般のネットワークに接続してサービスを提供する業務を行っている。

 元々大手の会社に勤めていたが、家庭の事情も相まって仲間と独立を決意、細々と続けている。

 需要に合わせて環境と条件のいい場所を見つけては、こうした設備拠点を増やしているわけだ。

 わたしはその手伝いから、今ではこの拠点の管理を任せてもらっている。

「あ、そうだ。私、この後息子と教務センターに行かないといけないから、少ししたら出るね」

 わかりました、と返事する。

 独身は今のところわたしだけで、ほかの皆さんはそれぞれ家庭がある。

 一応の会社組織とは言え、そんなにガチガチに勤怠を管理されているわけではない。今や勤怠という言葉が存在するのは、特殊な雇用契約を必要とする会社くらいだろう。

 もちろん、その分のインセンティブが存在し、より高い報酬を望む人や、自分の能力の限界を試したい人が飛び込む。

 詳しくは知らないが、海外と比べても生産性はとても高いはずだ。

 防犯カメラも各部屋に設置されているし、一人でこの事務所に居ても特に不安は感じない。

 会社が契約する警備会社が常時監視をしているのだ。

 とは言え、人間が直接観ているわけではない。観ている者がいるとすれば警備会社の人工知能だと聞いている。

 過去の膨大なデータから得られたその時々の現実の塊は、こうして今に生かされているわけだ。

 今わたしがこうしていることもパターンが記録されていて、もしかしたら将来の人工知能の判定に影響を与えているのかもしれない。

と、こうして語ると、まるで完成されているように思える環境だが、実はそうでもない。

 近所で火事があった時は大変だった。

 電気火災だったようで、この街区の電源が半日ほど落ちたことがあった。

 予備電源はあるから2、3日は大丈夫だとしても、こちらまで火の手が回ってこないか不安な夜を過ごしたこともある。

 まだまだ人間の存在は必要な社会だが、今くらいがちょうどいいのではないだろうかと最近は思っている。

 人工知能が、人間の存在自体が結局は環境にとって一番悪だ、人間の支配より人工知能の合理的な支配を人間の方が受けるべきだという、いわゆるシンギュラリティによる悲劇も懸念されていたが、人工知能が人間のすべてを理解できているわけではないと、運の要素の概念も理解させることに成功したこともあって、今のところは落ち着いている。

 デジタルは今後の社会にとって必要な屋台骨だが、かといってアナログも忘れてはならない。

 また、いつ停電が起こるかわからないので、わたしは新品の備蓄用鉛蓄電池が入った段ボール箱を開けて、電子工作ならぬ"電気工作"を始めた。

 女だからといって、一般に不得意かというとそうではないのだ。

 この会社は男性が多いようなので、希少な存在として雇ってもらえたのだと思う。なので、ありがたいなあと社長には感謝をしている。

 でも、必ず仕事をしなければ生活できないという訳では無いのが、今の社会の面白いところだ。

ばちっ

 銅線の行先に気をつけないと火花がでてしまう。
自分が火元になってしまうなんて冗談じゃないよなあ。

 この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

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