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あり得ない日常#61

 この制度が始まった当初、設置が可能な警察署の地下を法の要件を満たすように改装する形で、比較的大きな都市を管轄する建物から随時施設の設置が進められた。

 全国の中でも人口密度が高い東京都は、地方に比べると財政に余裕があり、景気もあまりよくなかった背景もあって、ひとつの公共事業として積極的に設置が進んだ。

 法の猶予期間中は各区に1か所2か所あれば要件を満たすくらいに設置を急がれたものではなかったが、成人はおろか高校生にも満たない者の線路への飛び込みやビルからの投身が相次ぎ、おまけに高齢化が特に目立って進む北部では独居老人の孤独死が周囲の住人によって発見されるなど、大きな社会問題となりつつあったため、簡易的な施設でもいいから少なくとも窓口は設置するようにとより対応が急がれるようになった。

 鉄道における人身事故は、都内では1時間で運行が再開されるかもしれないが、地方になると運転再開まで4時間以上かかる事も珍しくない。

 ほかにタクシーやバスといった交通手段があればいいかもしれないが、そうでない場合は足止めをくらう事になる。

 運悪く車内で居合わせてしまったら、自然あふれる車窓を眺めながらでも運転再開までひたすら粘り強く待つことになる。

 言うまでもなく、いくら命の問題とはいえ大変な迷惑でしかない。


 ビルからの投身や孤独死の後は、それら不動産に関わろうとする人間はまず躊躇ためらうだろう。

 事故物件扱いとなるか、それを免れてもまずいわく・・・つきのものになってしまうからである。

 たとえ上物を取り除いたとしても、何か土地自体に悪いものがある、もしくはついたのではないかという恐れを抱かせるのも仕方が無いだろう。

 

 結果、当初は場所と銃を貸し出す、それらをどう使うかはその人に任せるというやり方で始まったこの制度は、銃という日本人には馴染んでいない恐ろしい武器を前にしてなおも本当に死にたいのか。

 つまりは自分の命と改めてしっかり向き合い、躊躇ったうえで死なない生き方を選ぶことを期待した制度でもあった。

 しかし、その手段が銃しかないのは残酷で、本当にそれでしか期待を成しえないのかという議論も始まったのだった。


 この制度自体、それこそ国を二分するような賛否両論の激論の末に、一部の国民にただ死ねという制度ではない、自身の命と向き合う時間を作るという意味合いもあるのだという主張が最終的に通ったわけだが、実現してみると意外に混乱なく社会に浸透していった。

 今では銃ではなく、警察署地下にいくつかある4畳半ほどの地下室で毒薬が貸し出され、それを本当に飲むかどうかは個人の自由という形で制度は社会に定着している。

 本当に飲んで死亡した場合は、事件として捜査が行われる。

 ただ、自宅でやられるよりは、はるかに社会の負担は軽くなった。
理由はすでにお話ししたはずだ。


 死にたいと願いながら生きている人間は本当にいるのだろうか。

 そう主張することで周囲に心配してもらえる。構ってもらえる。

 法益を提供する国として矛盾する制度ではあるが、本当に死ぬ自由が与えられた現代社会では、むしろ軽々しくそうしたことが言えなくなり、それぞれが精神的に強くなったかもしれない。

 ただ、問題の多くはそれぞれの所得、つまり、体力的、精神的、年齢的な要因によるお金の問題でもあるのではないかと議論が行きついたところで、社会は最低給付保障制度ベーシックインカムの導入についてようやく議論を始めたのである。


※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。


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