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あり得ない日常#47

 毎月10万円という金額は多いだろうか、それとも少ないだろうか。
それが国から支給されるという前提の中で生きることが出来るとしたら。

 これはもちろん、普段の生活費と考えての話だ。

 現代では実現しているこの話も、創設されて移行するときは多くの年金世代から反発があった。

 それはなぜか。

 自分たちよりも下の世代はすべて好待遇となるからだ。

 ねたましく思う人間が出てくる。

 なぜ、自分たちよりもいい思いを、楽な人生を送ることを国として可能としようとしているのかと。

 そんな単細胞らがどれだけこの国にいたか統計をとると良かっただろう。

 それを言い出したら、戦中戦後を生きた世代が大多数健在なら、さぞ同じように何かにつけてこれまで責められていただろう。

 もったいない。

 水を無駄に使うな。

 使い捨てなんて罰当たりな。


 社会や平和は日進月歩だ。
人間は進化する生き物で、親よりも当然子供の方が賢い。

 感情的にも逆の方が望ましいかという話になる。


 話を戻すと、月5万円の家賃で生活するとしたら、残りの5万円でほかの費用を賄う必要がある。

 都内や地方の人気のある場所では10万円でも足りないかもしれない。

 また、物価の変動の影響も考慮する必要がある。

 1年前に1万円で買えていた物が、気が付けば2万円で買うほかなくなったというような物価の上昇下にあれば、毎月10万円支給されていても、実質その10万円は5万円の価値しかないからだ。

 こうなると支給額を倍に増やさなければならなくなる。

 ゆくゆくはこれが制度の破綻につながる可能性もあるだろう。


 では、どうすればいいのか。

 それは政府が得る税収や、それを裏付けて発行する国債で日本円を調達し、ゴールドやGDP上位に位置する資本主義国を中心とした海外国債を安い時に仕入れておく仕組みを持つことだ。

 そして、その仕組みはできるだけシンプルにしておかなければならない。

 透明性と目的のある政府資産は、よりよい社会の実現に必要だ。だが、問題なのは一部の利権や私利私欲のために権力や立場を利用した構造を温存するための資産は、結局は体制全体への反発へとつながりかねない。


 年金制度が廃止に動く前、政府は年金支給の税収負担増加を理由に、増税もしくは、支給額の実質据え置きなどを軸に進めた。

 物価がわずかながらでも上昇する局面においては、ある程度有利な年金受給資格を持っていないと、とてもではないが生活できる状況ではない人たちが徐々に出て来始めたのである。

 政府は、そもそも年金だけで生活をすることを想定した制度ではないとして、ある意味開き直りともとれるスタンスをとった。

 年金は、足りるか足りないかは別として、最低限いくらか支給しておけば義務は果たされるからである。

 これは何も2020年代に決まったわけではなく、それよりもずいぶん前に決まったことであるため、いまさら何をという話になった。

 仕方がない、多くの国民が選出した国会議員からなる最高決定機関である国会がかつて決定した事だからだ。

 これは、民主主義が悪いわけではなく、国民が半ば思考停止的に過去の選挙を消費してきた、見事な責任の結晶だと言うほかない。


 当然に、年金だけで生活が出来ないのであれば、出来る仕事を見つけるほかないだろう。

 そうすると、かつて部下や目下の人間が責任者を務める会社や店に入ることになるわけだ。

 人間、生きていればいつ何時何が起こるかわからない。

 もし、現役時代に立場や権力をかさに、威張り散らしていたり、具体的でためになることを何一つせず、勝手な振る舞いばかりしていたのであれば、同じことをその身に受けることになるだろう。

 現代では、警察署の地下に自分の身の処分を決めることが出来る安楽死制度がある。

 もし、その恥に耐えられないのであれば、いつでもそこに行くといい。


 いつまでも被害者根性でいるのもいいかもしれないが、熟年離婚も多い中で、何らかの責任をとらざるを得なくなったときに、それはそれは大きな禍々しいものになり果てて、その身に降りかかってくるだろう。

 この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

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