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雑草という名の植物も人もいない

先日実家の駐車場で、3時間ほど草むしりをして以来、雑草を見ると抜きたくなります。
今まで一度も「草を抜きたい衝動」に駆られたことなどないのに(笑)

実家に廃墟感が出ないように、週一回は何かしらやっており、母がいた時よりよっぽど手がかかると思いました。

それでも家の中に母が溜め込んでいたものを少しずつ整理して、家がどんどんきれいになっていくと、こちらまで気持ちが良くなります。
それに比例して母はだんだんと生きる時間が短くなっているような気がします。

いわゆる「毒親」であった母に対しては、許せないこととかはたくさんあったわけで。
思い返してみると、許す必要は無いだろうとシンプルに思うことばかり。
罪は罪、カルマはカルマとして、マイナスのエネルギーは、母が向こうに持ち帰ることでしょう。

私は自分の中にあった感情が、たまたま母がたった一度「ごめんね」と口にしたことで、あっさり許せたことに驚きを覚えました。

今までは、母に何かを伝えたくても途中で遮られ、その3倍も5倍も攻撃を受けてしまうような関係でした。
でも今はガミガミと言い返してくる母ではなく、弱々しく横たわるだけ。
私はこうしてただ穏やかにそばにいたかっただけだなのかもしれません。

「最期」と言う言葉は不謹慎かもしれませんが、残りわずかな時間を穏やかな気持ちで過ごせるようになったのは、母の気力がもうないことに尽きるのでしょうね。

本当に不思議な生き方をした人だなぁと思います。
会社に行くの時に通りかかる公園に、目渡す限りたんぽぽが咲いていて。
自宅の前に咲いていたたんぽぽは私に鎌で全て刈られてしまったのですが(ごめんね)

そんな風景を見ると、牧野先生(神木隆之介)の声が響くのです。
「この世に雑草なんて名前の植物はないき」
うん。
全くその通り。

どんな生き方をしたにせよ、この世に何かしら意味を残すのだなあと思います。
おそらくは母の執着のひとつとなっていた、今年生まれれ方になっていたひ孫が、数日前に生まれました。
それがどんな意味を持つのか。

私がこの世界を去るときに、自分がどんなことをやって生きてきたのか、どんなことを残していけのるか。
それを今からちゃんと意識しておこう。
これからはこの世界に少しでも何かを残していけるよう、そんな生き方をしたいと思いました。


※写真は札幌大通り公園のライラック(2024年5月15日撮影)
5/15〜26まで、ライラック祭り開催中

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