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命は永遠

「本日午前中に永眠しました」

親友のLINEから届いた、親友の娘さんのメッセージ。
目に入った時から、しばらく何かが止まった。

その意味は理解できていると、遠くで感じている。
でも、私の意識の前面にいて、「この文字を読んでいる私」は、まだどこかぼんやりしている。

私はもともと、文章を脳内で音読する癖がある。その一方で、音読ではなく速読することもある。文字の塊を見て、一瞬でそこに書かれている意味を理解するのだ。
どちらのやり方で読むのかは、脳が勝手に判断しており、気づくと速読しちゃっていた、なんてことがよくある。

LINEなどのメッセージは、話し言葉であることが多いし、どこに大切な単語が落ちているかわからないから、脳内で音読することがほとんどだ。

今回も、しっかりと頭の中で文章を声を出して読んでいた。なのに、「永眠」と書かれた文字だけ、脳内ですっと無音になる。
その字面から意味はすでに把握しているのに、その言葉が私の中にすんなり入ってこない。

最初からもう一度音読しても、その文字だけがふっと無音になる。
3度目に、脳が痺れを切らしたのか、情報を前面にいる私に無理やり押し付けてきた。
「彼女は今朝、亡くなったんだよ!」

ああ。

その日私は、別のグループでランチに出掛けていた。もともとそういう予定だった。
その帰りにスーパーに寄り、入り口に立ってLINEを開いた。
家族から「今日の晩御飯いらない」とメッセージが入っていることがあるから、買い物をする前にチェックするのだ。

先月、「体調が悪くて家から出られなくなった」とメッセージが来てから途絶えていた、友人のLINEからのメッセージは、とても長文だった。

「余命一年?
そんなのきっと誤診だよ、
こんなに元気なんだから!」

医師を疑ったのではない。信じたくなかったのだ。

あれから一年がたつ。

去年のクリスマス前にランチ会をした時は、元気だった。
無理していたのかもしれないけれど、みんなでパスタをシェアしあい、学生時代の思い出話でたくさん笑った。

「おばあちゃんになっても女子会しようね」
「その時は杖のデザインとかをお互いに褒めあったりするの」
「腰が曲がっても頑張って集まろうね」

一年前から自然にそんな会話を交わして、最後にはおばあちゃんになっても集まる約束をしあって別れる。
それは、みんながおばあちゃんになるまで元気でいることが前提だから。
明るい未来が待っている。
全員が全員にそう言い聞かせていた。

「また年明けに集まろう」
けれど年明けのランチ会に、彼女は初めて欠席した。
どんなに体調が悪くても絶対に来る。
そんな彼女だったから、私たちはどこかで静かに覚悟したような気がする。
最後まで受け入れる気はない。
でも、もしかしたら。

気になってメッセージを送りたいと思った。
でも無理してでも明るく振る舞う彼女の負担を考えて、よくなって会える状態になるのを待つことにした。
みんなで静かにその日を待っていた。

本当は読む前から中身はわかっていた気がする。そして私は恐る恐るメッセージを開いた。

意味を理解するのを拒否した頭で何度も読み直し、3度目に唐突にそこに書かれた意味を実感する。

もう少しで、スーパーの入り口で座り込むことろだった。

「とりあえず帰らなくちゃ」
それだけに集中する。考えることをやめてただ動く。

豚肉。
ヨーグルト。
トイレットペーパー。
あとは何を買うんだった?
いや、もういい。
帰ろう。

家に帰ると、前日に卒業旅行から帰ってきた娘が思い出話を語ってきた。
私は他の友達と、告別式のことやお花のことなどの打ち合わせを、LINEでやり取りをしながら、少し上の空で、うん、うん、と娘の楽しそうな話に相槌を打つ。
夕飯を作る。
食べる。
洗濯物を干す。
泣かない。
何も考えない。

何も考えないことは、ぼーっとするものだと思っていた。
まさか、目をギンギンにして、全力でもって「考えない」ことに集中しなくてはならないなんて。
気を許すと彼女の笑顔が勝手に蘇ってくる。
だめだ。
馬鹿みたいに号泣してしまいそうになる。
それの何がダメなのかよくわからない。考えてはいけない。
ただ、考えないことに集中。
考えると、押しつぶされてしまいそうだから。

翌朝目が覚めると、私の中の何かが欠けていた。

友達がこの世界から去ってしまうと、自分のエネルギーの一部も欠けるのかなと、ぼんやり思った。

科学的なことはよくわからないけど、彼女が去る事で私と彼女が共有していた魂の一部があって、それが向こうに行ってしまった。
そんな風に思った。

事実とかはどうでもいい。ただ、そんな気がしたのだ。

それでもいいや。
それだけ大切に思ったのだから,私の魂の一部が欠けたっていいや。
なんだかそんな気分にもなった。

けれど、誰かが頭の中に別の考えを置いていったみたいに、突然全く違う考えが浮かんだ。

「共有した部分がある」ということは、私の魂の一部が彼女の魂でもあること。彼女と共に私の一部が去ったのではなく、これからも,彼女の一部は、私の中で「生きつつづける」ということ。
それはすなわちこれから私が経験することは、彼女がこの世界で経験していくことにもなるということ。

いわゆるレイ的な存在ならば、魂の外側につく感じかもしれないが、そうじゃなくて。
もっと内側の深い部分で繋がっている感覚があった。

私が咄嗟に思いついたとは思えない「思考」はこう続けていた。

心が重なり合い、やがて溶けあい、あたかも魂がひとつになっていくように、互いに共有した領域ができることがある。
それはあの世とこの世という、違う世界でも、魂はどちらでも存在できるため、その領域は共有したままでいられる。
この現象は、どちらか一方だけが相手を思うだけでは起きない。
お互いにお互いを、まるで自分のことのように大切に思っている場合に起きるのだ。
だから、それは魂が「欠けた」のではないと。逆に領域が増えて,互いに豊かになったのだ、と。

よくわからないけど、もしそうならば、彼女もまた私のことをそんなに大切に思っていてくれたのか、
そう思ったら涙がこぼれ落ちた。
しかも両目からいっぺんに3つぶくらい一気に。それだけでは止まらず、4、5、6と、ポタポタ落ちてくる。
多分その間5秒も立っていない。

涙ってこんなに勢いがあるものだったっけ?

いや!止めなければ!
これから出社するんだから!
慌てて深呼吸をして、目を見開く。
私は泣き虫だから、涙の止め方を知っている。

朝起きて欠けていると感じたのは、私自身が喪失感を感じているから、失った、足りない、欠けていると感じるだけなのだ。
もう少し時間が経てば、私が彼女を失ったことで欠けることなんかなくて。
一緒に過ごした思い出や、これからも魂の中で一緒に過ごしていけるのとが、私と彼女のことを豊かにするのだと。

これから私が生きていくことが、遠い世界に旅立った彼女の一部が経験していくことになる。
もしそれが本当のことならば、大切な人をなくした人たちみんなに知ってほしいと思った。

あなたが幸せになることが、あなたの大切な人が、向こうの世界でしあわせになることになるのです。
それは一緒に過ごしていた時間で、深く思い合って魂を共有したから起きることなんですよって。

少しだけ心が軽くなり明るくなった。

おはよう。
と自分の魂にあいさつした。
今日も幸せで過ごせますように。

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