愛を込めて札束を。

その日、僕、神津 樹(コウヅ イツキ)は一人で住まうマンションの一室、その玄関で右往左往していた。
「えっと、並木 仁愛(ナミキ ニイナ)さん18歳、好きなものはパンダ、嫌いなものはおばけ。よし、いける、大丈夫。」
そうぶつぶつ呟きながら、少し遠くに見えるリビングの時計に時折目をやる。
「11時57分、そろそろ来てもいい頃だな、うん。」
僕の落ち着きのない動きが更に落ち着きを失っていく。10分ほど前からずっと復唱しているせいで、その女性の特徴はまるで何の意味もない早口言葉のように部屋を流れてゆく。
「そういえばあだ名、考えてなかったな…、えっと、仁愛さん、は他人行儀すぎるかな。仁愛ちゃん…?これはなんか違う。……にい、にゃん…?」
僕は足をぴたりと止める。
「いや引くわ流石に!!!」
左手は誰に見られるわけでもない赤面を隠し、右手は扉を思い切り叩きつけた。
「わっ…!?」
外で小さく、悲鳴が聞こえた。
僕は慌てて扉を開けた。と、同時に恐らくまだ赤いままであろう顔を扉の隙間から垣間見えた彼女に見せないように逸らした。
「初めまして、私、並木 仁愛です。3日間よろしくお願いします。」
彼女は何も気にしていないかのように丁寧に頭を下げた。
「いや、こ、こちらこそ…、あ、神津 樹です…」
僕も慌てて頭を下げる。僕が頭を上げようとしても、彼女がまだ下げたままで、上げづらく思いつつもゆっくりと元の姿勢に戻った。
ようやく顔を上げた彼女のロングヘアが揺れる。
甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。

「これ、お土産です。よかったら一緒に食べませんか…?」
仁愛さんはリビングに通されるや否や、大きなキャリーケースとリュックサックを携えたまま手元の小さな紙袋を僕へ手渡した。
僕は彼女が差し出したものを見て、納得がいった。
「桃、好きなんですね。」
紙袋を受け取ってから、リュックサックを下すのを手伝いつつ、僕ははにかんだ。…つもりだ。
「はい、ばれちゃいますか。」
「髪も、それ、桃の香りですよね」
「そうなんです、よかったあ、気づいてもらえて…!」
仁愛さんが少し恥ずかしそうに荷物で顔を隠しつつも口角を上げているのがわかる。
僕はその顔を見て改めて悟った。

ああそうだ。彼女は実際に会ったこともなかった自分を、今、現在進行形で、愛しているんだ。

僕ははっと我に返り、紙袋を持ってキッチンへ向かった。
「暑かったですよね、荷解きは後でいいですから、先にこれ、食べましょう」
と、紙袋を掲げて見せた。
「お茶も淹れますよ」
「いや、私やります…!」
「そんな、座って待っててください、ね、ね?」
「わかり、ました…」
役に立ちたい、と思ってくれているのだろうか。
それはとても嬉しいことではあるのだが、しかし同棲1日目から無理をさせるわけにもいかない。
僕は黙々とティータイムの準備を始めた。母が白桃に合うと言っていたゴールデントワールを蒸らす。

一方、仁愛はというと、かなり持て余していた。手持無沙汰だった。
きっと勝手に荷解きを始めても樹はそれを止めてゆっくりしていてほしい、と言うのだろう。
そう思いつつも、暇なものは暇である。
部屋の中を見回してみる。
洒落た間接照明。アンティークの掛け時計。かく言うこの部屋自体も、とあるマンションの上層階であり、すなわち《そこそこいい部屋》なのだ。
仁愛はなんとなく居心地がよくなく、遂に我慢が利かなくなり、振り返った。
「あの…」
「うわっ!?」
タイミングが悪かった。仁愛は後にシャワーを浴びながら反省することになる。

先ほどまでふわりふわりと揺れていた髪から滴る雫。
かろうじてお盆のみ捕まえることに成功した神津はしばらく固まったあと、慌てふためいた。
「ああああああああごめんなさい僕の不注意で…!」
「いえ、私が変なタイミングで声をかけたから…!あ、それよりカップ…」
仁愛さんがあわあわと床に転がったカップを拾い上げると、僕は慌ててそれを優しく取り上げた。
「あ、大丈夫、ちょっと欠けただけですから!」
欠けている部分を見つけ、危ないと思い取り上げたのだ。
「たた、高そうじゃないですかそのカップ!弁償します…!」
「そんなに高くないですよ、まあ、その辺で簡単に手に入る、まではいきませんけど…」
「…高くないの基準、やっぱ違ってきますよね…」
「えっ?」
「何もないです!」
仁愛さんが若干落ち込んだような顔を見せる。
それを見て、僕は少し焦り始めた。
『何か、まずいことを言ってしまっただろうか。』
僕は、目の前でゴールデントワールの香りに艶やかに濡れる彼女に顔を赤らめ、すぐさまタオルを手渡した。
「あの、お風呂場そこなんで…!」
「え?」
「か、風邪ひいちゃうんで、シャワー浴びてきてください…!バスタオルも、手前にあると思うんで使ってください…」
見ていられなかった。女性に慣れていない僕にとってはもう目の前のそれはある種の毒でしかない。
「じゃあ、お借りしますね…?」
と、並木は少しずつ身体を拭きながら、自分の荷物から着替えやら何やら取り出し、先ほど僕が指さしていた方向へと向かった。

「っはああああああああ…」
風呂場の扉が閉まる音を聞いて、ようやく僕はため息とともにその場にへなへなと崩れた。逆に言うと、それまではずっとカップを持ったまま硬直していた。
『心臓に悪い…!』
そう心の中で叫びつつも、手は床に零れた紅茶を拭くのに専念していた。
何せ、もう少しで彼女の荷物にまでも紅茶の脅威が迫っていたのだ。まあ、当の本人には思いっきり紅茶のシャワーを降り注いでしまったのだが。
「ふう…こんなもんか…」
心の中が荒れていた割にてきぱきと拭き終わったので、彼女が来るまでの間に頭の整理をすることにした。
お湯を沸かしつつ桃を剥いて冷蔵庫に入れると、いつもの椅子に腰かけてここ数分の記憶をひとつずつ拾い上げ、丁寧に引き出しにしまう。
段々とうつむく頭。その視線がひとつの物を捉えた。
「…あ」
急いでシャワーを浴びに向かった彼女。開けてそのままにしているリュックサックに寄り添うように冊子が立てて置かれていた。
僕はそれをおもむろに拾い上げた。
その冊子は週刊誌と同じくらいの大きさで、厚さはそこまでない。
そして、表紙には『リトル=リトル心得』とだけ書かれていた。
「りとる、りとる…」
思わずその単語を口にする。
パラパラとページを捲ると、文字がびっしり書いてある。
正直、気が遠くなる。
「…仁愛さん、これ全部読み込んでるのかな…」
すごいな、と声には出さなかったものの、口が動いた。
「い、樹さん!」
か細く響く声が聞こえた。
「あの、濡れちゃった服、どうすればいいですかー?」
「あ、まとめて洗濯機に放り込んでおいて下さい!」
「えっと、はい、わかりました…!」
並木が戻ってくる。
それを察して僕は慌ててもとの場所にそれを置いて、紅茶の準備をした。
「シャワー、ありがとうございます。」
仁愛さんがぱたぱたと戻ってきた。
「そんなかしこまらないで下さいよ。今日から一緒に暮らすんですし…」
「そうですね…!ごめんなさい、私、初めてで、緊張してて…」
恥ずかしそうに彼女が荷物の方へ体を向けた。
「初めて、なんですか。このお仕事で派遣されるの…」
「あ、いえ!まあ、そうなんですけど…。その…人を好きになるのは、初めてで。好きな人と暮らせるなんて、夢みたいなお仕事ですよ…!」
振り返るなり焦ったように早口に言うと、彼女は顔をそらした。
かわいい。
僕はにやけ顔のまま冷蔵庫を開けて桃を取り出した。
「ほら、座って下さい。仁愛さんが持ってきてくれた桃と、あとゴールデントワールの紅茶、リベンジです。」
キッチンから顔を出すと、仁愛さんがあの冊子を手にしているのが見えた。
彼女が振り返って、にこりと微笑む。
「はい、いただきます!」

息を吸い込むと、甘い香り。
そっとティーカップに唇をあてがって、ゴールデントワールを滑らせる。
仁愛さんが紅茶を飲む姿は可憐で儚かった。白いワンピースがその光景を更に引き立てている。
それを眺めて、僕は優しく微笑んでいた。はずだ。
「本当だ、桃に合う…。樹さんのお母様も、素敵な方なんですね。」
「です、ね。けっこう紅茶とか芸術とか、そういうのに興趣が尽きない人で…。僕も母の影響でそういうの好きになっちゃったんですけど」
僕は頭を掻いて言った。
「なるほど、そうなんですね!」
「学生の頃とか、趣味が女の子みたい、ってよく言われてたんですよ、男子校だったから余計に…」
「男子校だったんですか!」
仁愛さんが目を丸くして驚いた。
「私も、小学生の時は姉と一緒の女子高に入りたかったんですけど、ちょうど私が中学生に上がるってときに…」
「あー、僕はなくなる最後から三番目の代だったんですよね…。」
僕は中学、高校と通っていた母校を頭に蘇らせていた。
十年前、女子高、男子校は消えた。
少子化が進み結婚も減った日本は、男女の出会いの場を更に多くするために、全ての学校を共学にすることを義務付けた。
それまで女子高、男子校を運営していた組織は、学校をたたむ、もしくは共学に変えることを迫られた。
僕の通っていた男子校は、それで閉校したのだ。
「というか仁愛さん、お姉さんいらっしゃるんですね。」
「あ、えっと、私のプロフィール資料に書いてませんでしたっけ…?」
「あ!?そ、そうでしたっけ…!?あはは…」
僕は明後日の方向を見ながらわざとらしく笑った。
「そうだ、樹さん。あれ、読みました?」
「…あれ、って…?」
「リトル=リトル心得」
「あ、えっと…。…読んじゃまずいやつでした?」
「いえ、そういうんじゃなくって、なんとなく気になっただけで!」
「すいません…」
「いいんですよ!」
そう言うと彼女は一度席を立ち、その冊子を持ってきた。
「一応、絶対読んどかないといけない、って言われてるところは読んだんですけど、まだそれ以外は全然読めてなくて…」
「そうなんですか…」
《リトル=リトル》。株式会社プロヴィデンスの社員を一般的に指す言葉として世間ではほとんど通るようになっている。
株式会社プロヴィデンスはここ最近で一気に伸びた会社で、政府もこの会社の功績を称え、社長が国民栄誉賞を取るのでは、とまで言われている。
さて、株式会社プロヴィデンスとは何の会社か。

簡潔に言うと、《愛を売る会社》である。

最強の惚れ薬《ガロモ》を作りあげた株式会社プロヴィデンスは、《リトル=リトル》にそれを投与し、依頼者に対して完全に恋に落ちるようにしたのだという。
最近は貧困問題も多くなってきている。《リトル=リトル》は給与も高く、いい職業になっているらしい。
ちなみに、《リトル=リトル》と永久に一緒に暮らせるコースもあれば、僕のように日付を決めてその期間同棲するコースもあり、オプションに《結婚》もある。ちなみに値段は結構お高い。しかも当然だろうが、『人をレンタルしている』ということなので、決まり(結婚のオプションを選んでる人じゃないと、『そういうこと』をしてはいけない、等々…)もたくさんある。
一昔前だと「人身売買だ!」「不純だ!」などと叩かれていそうな
会社がここまで支持を得ているのだから、世の中の移り変わりの速さをひしひしと感じる。
このまま世界の少子化問題やジェンダー問題などが解決できるのでは、とまで言われているのだから、信頼はをしっかり築きあげているのだろう。

「ちなみに樹さんはなんで《リトル=リトル》と暮らそうと?」
「えっと…、親がそろそろ孫の顔が見たい、って…。でも僕、全然女の人と接したことがなくて。それでとりあえず…」
「女の人に慣れるため…、三日間ですか。」
「まあ、はい。」
「いいんじゃないですかね。…妥当だと思います。」
「…仁愛さん?」
「いえ!すいません、忘れてください!」
そう言って笑う彼女に、なんだか陰があるように思えた。

「洗濯物、回しておきましたね」
「すいません…、ありがとうございます…。」
「え、なんでそんなに落ち込んでるんですか!?」
「いやあ、つくづく配慮のできない男だなあ、と…。あはは…。」
なぜ僕はあのとき『適当に放り込んでおいて』なんて言ってしまったんだろう。女の人は男の人の洗濯物と一緒に自分の洗濯物を洗うのを嫌うって言うじゃないか。
…やってしまった。
そんなときだった。
電話が鳴る。
仁愛さんの「どうぞ」という目くばせに頷いて、僕はスマホの液晶をタップした。
『もしもし神津!オレオレ、佐藤!』
「いや一発でわかるよ…。どんだけ付き合い長いと思ってんの…」
電話の向こう側でハイテンションな幼馴染に相変わらず呆れつつ、僕は続けた。
「で、どうしたの?」
『聞いてくれよ!俺、遂に、…《リトル=リトル》と暮らすことになったんだよ…!』
「え、お前も…!?」
『え、「も」って、お前もかよ!奇遇だな!』
佐藤もこんな口調で見た目もいわゆるパリピっぽいが、女の子に全く慣れておらず、告白されては、そのリアクションのせいで2秒で告白を取り消されてしまうという奴だった。
『よかったらさ、明日お互いの《リトル=リトル》も連れて会わね?神津、どっかいいカフェとか知ってるよな!』
「わかったわかった、あとで連絡するよ。あと、ちゃんと相手にいいかどうか確認とれよ…?」
『おう!』
電話を切ってふと仁愛さんの方を見ると、彼女がこちらを見つめる
視線とぶつかってしまい、互いに目線をそらした。
「あ、明日、僕の友達が会わないか、って…」
「はい…」
「それで、仁愛さんも、よかったら一緒に行きませんか…?」
「私も…?」
「その!ダブルデートみたいなかんじで…!」
仁愛さんがきょとんとする。
しまった。完全に言葉選び間違えた。
穴があったら潜ってそのまま埋まりたい。
「…いいですよ、全然。…楽しみです」
にへ、と笑うと、仁愛さんはまだ解ききっていなかった荷物を解き始めた。
佐藤のおかげでデートの口実を作れてしまった。
彼には感謝しないといけない。
そして夕飯の支度をしていたころには向こうからOKの知らせが届いた。

その日の夜は眠れなかった。
良さげなカフェをずっと調べていたから?
明日がデートだから?
きっとそれもあるだろう。
しかし、一番の理由は何といっても、仁愛さんが横で寝ているということだろう。
すやすやと心地よさげに眠る仁愛さんがかわいくて仕方ない。
手を出したい、とかそういう感情ではなく、ただただ目の前にいる彼女がひたすらにかわいかった。
自分も知らない間に《ガロモ》を投与されたのではないか、と疑うほどだ。
「…まさか、あの桃の香り、…じゃないよな…」
僕はなんとか落ち着こうと大きく深呼吸をしながら目を閉じた。

翌日。
「おはようございます、樹さん!」
午後8時、既に仁愛さんは起きて2人分の朝食を作っていた。
「早いですね…」
「うち、お母さんがいなくなってからずっと貧乏で…、みんな早朝から仕事に行ったり忙しくしてたんですけど、朝食は姉と私で交代制で作ってて。それで早起きしてたんで慣れてるんです。コーヒーでいいですか?」
「…じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします。」
そう言って僕はテーブルについた。
「美味しそうですね」
「冷蔵庫の物、適当に使っちゃったんですけど、大丈夫でした?」
「全然!どんどん使ってください!」
仁愛さんがコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
ふと仁愛さんのマグを見ると、限りなくミルクに近いコーヒーの
色。
そのかわいさに朝からやられてしまう。
「いただきます。」
「どうぞ。じゃあ私も、いただきます。」
まずはじめにポタージュスープを啜る。
「…おいしい!」
「本当ですか?」
「これも、…これも…、ぜんぶ美味しいです!」
「そんなに褒められると照れちゃいます…」
いい朝だ。しかし、どうも仁愛さんのさっきの言葉がどうも引っかかっていた。
「…仁愛さん。」
「?なんですか?」
「聞いていいことかはわからないですけど…、その、お母さんがいなくなった、って…」
「ああ、そのことですか。大丈夫ですよ、全然。」
仁愛さんは牛乳たっぷりのコーヒーを一口飲んで、話し始めた。
「うちの親は共働きではあったんですけど、稼ぎはほとんどお母さんで。お母さん、会社の社長さんだったんです。でも、ちょっとずつ経営が傾いていっちゃって、結局は借金いっぱい抱えて倒産しちゃったんです。」
「えっ…」
「それでお母さん、借金残したまま行方くらましちゃって。それで今、生活保護で生活してる感じです。」
「そうなんですか…」
本人にはいいと言われたものの、自分の失礼な問いかけに後悔す
る。
「それで、姉と一緒に《リトル=リトル》に応募したんです。…すごいですよね。基本どんな人でも採用しちゃうんですもん。」
「ですね…。」
僕は何となくいやな気分になっていた。
「怖くなかったんですか」
「え?」
言っている自分が一番怖かった。
「《リトル=リトル》に応募するとき。だって、薬投与されて無理やり好きにさせられるんですよ…?怖く、ないんですか…!」
「…」
仁愛さんは驚いた顔をして、しばらくして、
「ふふっ」
笑った。
「樹さん、お人よしですね。確かに最初は不安もありましたけど、大丈夫です。だって、こんなに樹さんのこと、好きなんですもん…」
照れ臭そうに笑う仁愛さんはとにかくかわいかった。
「…い、樹さん、私実は…!」
そのときだ。スマホから着信音が鳴る。
「…すいません」
「いいんですよ」
液晶に触れると、耳に当てるまでもなく聞こえる大声が本体スピー
カーから放たれた。
『神津!!』
「なんだよ朝っぱらから…」
『今日のダブルデートの話だけど!!!』
「…ああ、お前もダブルデートだと思ってたんだ…」
『やっぱナシにできねえ!?』
耳を疑った。
「…はあ!?」
『いやさ、舞歌ちゃん…、あ、うちにきた《リトル=リトル》、並木 舞歌(ナミキ マイカ)ちゃんっていうんだけど』
「並木!?」
正面で、仁愛さんが反応したのがわかった。
僕は気づけば通話をスピーカーモードにして、スマホを机の上に置いていた。
『舞歌ちゃんがさ、「本当は達哉さんに恋愛感情を持てていないんです」なんて言ってきてさ!』
仁愛さんは震えていた。
その細い手に自分の手を重ねる。すると、仁愛さんの震えは少しだけ収まった。
「…お姉ちゃん…」
やはりお姉さんの名前で合っていたらしい。
『で、会社の方に連絡して、引き取りに来てもらうんだよ。だから…』
「嫌!駄目!今お姉ちゃんはどこ!?ねえ、ねえ!!!」
仁愛さんが必死の形相で声を荒げていた。その頬には涙がいくらか伝っていた。
「仁愛さん…!」
『え、何?今のそっちの《リトル=リトル》?』
「駄目…!『薬が効いていなかった』なんて言ったら、あぁ…!」
『…いや、そんなこと言われても…、こっちは『ちゃんと恋愛したくて』依頼してるのに、そんなんだったら文句も言うって。』
そういえば佐藤は昔から言っていた。
『遊びの恋愛じゃなくて、ちゃんとお互いがお互いを愛してる、って上で恋愛したい』
確かにそうだ。でも、この仁愛さんの焦りようは、絶対に何か舞歌さんを引き取らせてはいけない理由がある。
「佐藤!頼む!仁愛さん泣いてるんだ!なあ…!」
『そんなこと言われても…俺、もう連絡しちまったんだけど…』
その言葉を聞くや否や、仁愛さんは電話を切った。
「仁愛さん…!」
「…ごめんなさい。」
「いや、こっちこそ、ごめんなさい。」
「樹さんが謝ることないですよ…」
沈黙が続いた。
仁愛さんはしばらくして、席を立つと、「外の風にあたってきます」と、バルコニーへ出て行った。
僕は仁愛さんをそっとしておくことしかできず、その後すぐ朝食を食べ終えた。
さすがにそろそろ様子が気になり、僕もバルコニーに出ることにした。
「…仁愛さ………!!」
仁愛さんはバルコニーの縁に立って、今にも飛び降りようとしているところだった。
「仁愛さん!!!」
その細く華奢な腰を抱きしめ、僕はそのまま部屋の方へと倒れた。
「ったぁ…、…仁愛さん、怪我、ないですか」
「…はい」
仁愛さんの目にはついさっきまでの輝きが宿っていなかった。
す、と涙がその白い頬に流れた。
「話してもらえますか、《リトル=リトル》はどうなってるんですか…?」

再び僕と仁愛さんは向かい合わせにテーブルについた。
「私、《ガロモ》を投与される直前に、見ちゃったんです。《ガロモ》を投与されても効き目がなかった人…」
「…」
僕は黙って聴いていた。
「その人、申告してすぐに、黒服の人たちに取り押さえられて…、それで…」
「…」
「そのまま、どこかに連れていかれちゃったんです。その先は、わからないです。」
「…そうですか…」
仁愛さんはまた涙をぽろぽろと零していた。
「それで、怖くって、…その直後に私も《ガロモ》を投与されたんですけど…」
「…効かなかった?」
仁愛さんは静かに頷いた。

仁愛さんには今日一日安静にするよう言って、ベッドルームへ連れて行った。
一人でテーブルにつき、考える。
テーブルにはまだ仁愛さんが残したままの朝食が残っていた。
なんとなく一口ポタージュスープを飲む。
冷めてもその美味しさは変わらなかった。
「どうしたもんかな…」
僕は席を立つと、契約したときにもらった書類一式を引っ張り出した。
それをぱらぱらと順番に眺める。
「…やっぱり、これしかないのかな」
僕はスマホを手に取り、番号を押した。無機質な呼び出し音のあと、こちらも無機質な声が聞こえてきた。
『もしもし、こちら株式会社プロヴィデンスお客様サービスセンターでございます。』

私が目を覚ましたのは午後5時ごろだった。
向こうの部屋で樹さんが話す声が聞こえて、ベッドから起き上がった。
リビングの方へ向かうと、樹さんが立ったまま電話に向かって話していた。その表情は、必死そのものだった。
「だから、お願いだよ!僕は仁愛さんを守らなきゃいけないんだよ!だから、月に5万円でいいから、お願い、お願いします…!」
「…樹さん…」
こちらを振り向いた樹さんは、マズい、といった顔をしていたものの、それは一瞬だった。
「…!本当!?ありがとう…!!!」
明るい表情で何度も何度も感謝と謝罪を述べて、樹さんは電話を切った。
「樹さん…」
「仁愛さん、大丈夫だから…。」
「え?」
「…延長、申し込んだんです。」
「…えっ」
確か延長の料金はかなり高額だったはず。しかも延長する期間に沿って定期的に払い続けないといけないはず。
「そんな、大丈夫なんですか…!?」
「頑張るしかないですよ。まず、ここを引き払って、安いアパートに住もうと思います。アンティークの物も売りに出す予定です。」
「なんでそこまでして…!」
「仁愛さんのことが好きだからに決まってるじゃないですか!」
私はただただ驚いた。でも、それを私は無意識に受け入れようとしていた。
「…私も、みたいです、樹さん」
「え…!?」
「こんなに私のこと思っていろいろしてくれるなんて、…私…」
「仁愛さん…」
「…私のこと、守ってくれますか…」
「もちろんです。僕が全力で守ります。」
樹さんは私を優しく抱きしめてくれた。
それに身体を預けて、私は幸せを噛みしめていた。
お姉ちゃんのことはもう頭になかった。ただ、この人と生きていこう、そう思った。

数年後、株式会社プロヴィデンスに僕はいた。
《リトル=リトル》になるために。
結局、「守る」なんて言って、全然守ることなんかできなかった。
貯金は尽きて、働いていても月の料金には到底足りない。
親からも見放された。
最後まで味方でいてくれたのは仁愛だけだった。
それなのに、その彼女を守ることは、僕にはできなかった。
仁愛は引き取られて行ってしまった。
悔しくて、悔しくて、泣き喚いた。
そして、街中をあてもなく彷徨っていた時、《リトル=リトル》の求人広告を見つけた。
直接会社に乗り込んでいったものの、無事採用された。
ここで再び仁愛と再会出来たら、なんて思っていた束の間、僕にも指名が来た。
僕のような若干頼りない男を所望した男の人らしい。
早速《ガロモ》の投与のため、個室へと連れていかれる。
「情報は読み込みましたね。では最後に、血液注射により薬を投与します。その間は目を瞑って、できる限り依頼者のことを思い浮かべ続けてください。目を開けてください、と言ったら、目を開けてください。正面に依頼者の写真を用意するので、10秒間、見つめてください。質問は?」
「…ありません」
「では開始します。目を瞑って。」
皮膚を貫く痛みに、少し身体が強張る。
さっき視界の端に見えた蛍光ピンクの液体。あれが体内に注ぎ込まれていると思うとぞっとした。
いろんな薬を投与されたが、これに一番嫌悪感を覚えている。
ああ、いけない。依頼者を思い浮かべないと。
「目を開けてください。」
10秒。やたらと長く感じた。
「では、係りの者がくるまでお待ちください。それまであなたの愛する人の資料を読んでお待ちください。」
皮肉じみたせりふだ。僕は仁愛のことを愛してるって言うのに。
…あれ。
僕は片っ端から依頼者の資料を見た。
胸がときめいたり、顔が熱くなったり、そんなことは全くなかった。
「《ガロモ》が、効いてない…」

「社長、元気にしてます?」
「博士、久方ぶりで。」
株式会社プロヴィデンスの社長室。社長と呼ばれた女性と博士と呼ばれた男性が和気あいあいと話していた。
「《ガロモ》はどうです?うまく使われてます?」
「もちろんですよ。まさか誰も『最強の惚れ薬』が『最強の惚れてからの熱が深まる薬』なんて思わないでしょう。博士の発想には驚かされますよ。」
「はは、それほどでも。ところで、今現在《リトル=リトル》は何人ほど?」
「絶好調で。10万人を突破しました。いやしかし、まだまだです。博士、よろしいですか。」
「もちろんご協力のほどはさせていただきますよ。」
社長室に響く笑い声。
地球上でこの二人しか知らない秘密である。
「これは世界征服も夢じゃないですねぇ。」
「そうですね。そろそろ海外にも手を伸ばそうと思っていたところです、海外の賛同者も集めなければいけませんかねえ。」
「その必要はありませんよ、社長。私だけでじゅうぶんじゃないですか。」
「…言ってくれますね。では、お願いしますね。」
「喜んで。」
博士が社長室を去ろうとした時だ。
「博士。」
「…なんでしょう。」
「今夜は…」
「もちろん、お待ちしていますよ」
そう言い残して、博士は社長室を去った。
その扉の方向を、社長はコーヒーカップを片手に見守っていた。

博士がそこへ蛍光ピンクの液体を入れていたのにも気づかずに。

「ああ、まだ来ないのかな。…男って、引かれないかな。いや、大丈夫だ。《リトル=リトル》は絶対に依頼者を愛しているんだから…」
そのとき、男の家のチャイムが鳴った。
「はじめまして、神津 樹です。…これ、お土産です。」
そう言って彼は白桃の入った紙袋を男に手渡した。 



現在のゆずとものひとりごと

一言いうとしたらちょっと無駄が多かったかな、と思う今作。
いつか書き直すときは無駄を省きつつ二人の関係をもっと綿密に描きたい。

というのも元々1時間程度の舞台脚本にするつもりで書いていたのが今作。
どうしても日数を削らないと1時間に収まりきらないと思って書いてたプロットを無理やり小説にしたのでこんな感じに。

SFとファンタジー好きなんですよね…それもどんでん返しがあるやつ。
最後にとんでもない種明かしがあるパターン。
そういうの書きたくて書きかけの作品とかまだまだわんさかあるんですよ。
全部完成させたいな…

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