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人には役割分担があるよな〜って話

出来て当たり前だと自分も相手も思っているようなことが出来なかったりすることは多々ある。


やっぱり人には役割があるし、生きていると自分が「やること」「やらないこと」ってのが出てくる。


私はね「焼き肉の肉を焼く」と「包丁を研ぐ」をこれまでほとんどしたこと無い。それは出来ないからじゃなくて、誰かと焼き肉にいくと「絶対に相手が焼く係」だから。なんかね、誰といっても必ず相手が焼いてくれる。


「たまにはやりなよ」ってトング持たされる時あるんだけど、最初乗せるだけで、あとは気付くと相手がやってる。だからそういう役割なんだなって。「ありがとう」って思いながら食べてる。


それともう一つが包丁研ぎね。


包丁。切れ味の良い包丁が好きなので、切れなくなると新調したり、最初から○本セットってのを買ったりしてた。そしたら家にどんだけ包丁あんだよ状態になっちゃって。

数年前に「良く切れる」と父親からもらった包丁があるんだけど、それが本当に長持ちで重宝してた。


実家に帰る度に父親に「包丁研ぐか?まだ平気か?」「切れ味悪くなったら持って来いよ。研ぐから」と言われていたんだけど、「まだ平気」「まだまだ切れる」とこたえているうちに父親の「研ぎたい欲」が萎えたらしく、研ぎ石をプレゼントされた。


「何も俺が研ぐ必要ねえか」


お互いに目から鱗。

ほんまや、包丁研ぐの父親の役目だと互いに思い込んでたわ。


思えば働いているときもそうだった。仕事で包丁は使っていたけど、自分で包丁を研いだことはなかった。なぜなら職場には他に研ぎ師がたくさんいて、その人たちが研いでくれた包丁を使っていたからだ。(いばるな


でも家庭には研ぎ師がいなかった。焼き肉を担う者はいても、研ぎ師はいなかった。


ってことで昨日、人生初の包丁研ぎをした。


結論から先に言うと無理だった。


やる機会が無いだけで出来ると思ってたけど、普通に無理だった。出来なかった。やったけど。もう二度としたくないと思った。


あんね、何が無理って音が駄目だったんよ。


刃物を研ぐあの音が自分にとってかなり不快な音だった。


シャーコーシャーコーっていうあの音を聞いただけで鳥肌が立った。


しょうがないのでノイズキャンセリングのイヤホンつけて爆音で米津玄師の「地球儀」聞いて、君たちはどう生きるかって哲学の道を歩くように無心になって研いだ。


でも意味ないの。基本うるさい音が苦手なので、イヤホンも苦手。しかも金属音ってイヤホンもノイズキャンセリングも貫くのね。ボリューム上げようが何しようが絶対にシャーコーシャーコー聞こえるの。こんだけ米津玄師でかい声で歌ってくれてんのに、金属音も負けないくらい大きいの。なんでや。二重にも三重にも不快。ちなみに藤井風も金属音に負けた。マキシマムザホルモンじゃなきゃ駄目だったのかも。


しかも指先から伝わってくる刃物が石に削られていくあの感触がさぁ……音の記憶を刺激するのか、脳がゾワゾワ信号出しまくりなのよね。


あ、だめだ。私。研げない。


心折れた。


ついでだし家にある包丁全部研ぐかと思って5本だしたんだけど、一本のA面でもう無理。B面?知らん、みたいな状態。


それで気付いたんだけど、やっぱ自分の役割になり得なかったものって、シンプルに自分には出来ないことだったんだなって。


焼き肉も焼く機会が無かったんじゃなくて、焼けない。

包丁も研ぐ機会が無かったんじゃなくて、研げない。


もうわかった、認める。


出来ない!焼き肉焼けない。包丁研げない!

だから誰かやって!


私は多分、そうやっていろんな人に助けられて生きてる、ありがと。


これからも存分に助けてくれて良いよ!

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