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一人称を固定しない時間を持ってみな.

「自分は男である」
「自分は女である」
「自分は(L.G.B.T.Q)である」etc...

 自分のアイデンティティを確立したり,自分を誇ろうとする際に「性別」を引っ張り出してくるのはバカバカしいことだと思っている.
性別というのは生物としての根本的な要素であって,とてもシンプルかつ複雑性のないシステムであり,自分の人格全体のシルエットの形成にしか役立たないと考えられるから,私はそう思っている.
行動や思考が自分の性別に左右されることもあるが、性別よりも自分のそれに影響をもたらすものが多くある中で、性別を別枠のものとして捉えることは無粋である.

 アイデンティティの確立を目指したり自分を誇ろうとするなら,単純な要素を引っ張り上げるのは手札の少なさをひけらかすようなものだ.
もっと文化的で文明的で,複雑性のあるシステムによって,後天的な才能や努力によって獲得された,何にも代え難い「それ」を自分のアイデンティティの確立や自分を誇る際の理由にした方が説得力がある.

つまり,前者と後者では説得力の差があり,なおかつ前者は相手に対して自分の薄っぺらさを故意に見透かせる行為であるので,バカバカしいのである.
(ここで言う“相手”には自分自身も含まれている)

時代の流れに甘えず、かまけるな.

 ジェンダーに関する話題に触れる機会が増えている昨今.
もうこの話題に飽き飽きだという人もいるかもしれないが,私に言わせれば「飽きるなら最初から注目してんじゃねえよバカ野郎」である.
飽きるなんていうのは“戦う当事者”の辞書にはない言葉であり概念である.
それを横目に「飽きた,まだ言ってんの?」なんて言おうものなら,座っている貴様の後頭部に前蹴りをお見舞いする.

しかし逆に,ジェンダーに関わる話題に注目が集まっていることに甘えて,「自他の性別や性意識に敬意を払ってる自分は(偉い・すごい・誇らしい)」などと考えるのは危険であり,これもまた無粋である.
自分がどんなことに意識を向けていても,時代の流れや戦う当事者たちの功績がなければ,本来偉くも何ともない.

相手の性別や性意識に対しては「相手のそれを認識した後,自分がどう思おうが感じようが攻撃しない」という行動ベースの形式的無関心な態度が最も相応しいのである.
問題があるからこそ当事者が存在し,当事者の中でも戦う者と傍観する者,目を背ける者など多くいる中で,何らかのイデオロギーを他者に押し付けたり強要することは全くバカバカしく,無粋で,醜いものである.

そんな荒野というフィールド上に都合よく降り立ち,ガサゴソと大きな物音を立てながら残りカスをあさる行為は,全くもって評価するべき部分がなく,また,本人が思っているよりも収穫が遥かに少ないので,本当にバカバカしいのである.

一人称を固定しない時間を持ってみな.

最初は違和感や恥じらいを感じるかも知れないけど,普段使わないような一人称を急に放り込んでみて欲しい.
同席している相手のことなんか気にせず放り込む.
「俺」「私」「僕」「自分」「うち」「小生」「それがし」「おいら」「わし」「拙者」「朕(ちん)」などなど,これ以外にも沢山あるので好きなものを選べばいい.
もちろん下の名前やあだ名で自分のことを指すのも良い.

私は自分のことを「わし」という友達や「小生」という友達,「おで」という友達など,変わっていると思われるような一人称を使っている友達が沢山いる.
聞いている立場としては思いのほか違和感はない.
使っている一人称を急に変えれば最初は反応されるかも知れないが,それは一時的なことなので気にする必要はない.

西村ひろゆきも、自分のことを「僕」と言ったり「おいら」と言ったりしている.
「おいら」を選んだ理由は、「一番性別の要素を感じない一人称だから」らしい.

疲れたので終わり.
続きは自分でどうぞ.

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