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宗教を批判するのが下手くそな君へ.

 宗教が如何いかなるものなのか分かっていないくせに批判するような奴が大嫌いで,「こういう人ほど能書きを垂れるんだろうな」とか思って見ている.

 ここで言う「宗教」とは、厳密に言えば「信仰」を指していて、確かに批判されるべき宗教団体や理念、教義が存在していることは個人的にも理解している.
しかし理念や教義、並びに組織自体が批判されるべき状態であっても、組織を構成している個々人は批判の対象になるべきではないと考えている.
これはシンプルに信仰の自由が法で認められていると同時に、個人的にも重要視しているからである.

論より証拠、本当の論はそれからだ.

 サンプル数1で物を語る人は決して少なくない.
そんな彼らを間近で見る機会が少なくない中で、「いつになったら、何がきっかけで彼らは生き恥を晒していることに気づき、やめることができるのだろうか」とか考えている.

 ある日、弱冠じゃっかん20歳の友人が「〇〇っていう宗教団体の人間はヤバい人が多い」と私に言った.
「それをどこで知ったのか」と聞くと、「知り合いも言っていたし、自分の知り合いにも数人いて、やっぱりどこかおかしい」と返ってきた.
「どこがおかしかったか」と聞くと、「正義感が強すぎたり(押し付けられたニュアンスを含む)、どんなシチュエーションでも、例えば友達数人で遊んでいる場面でも食事の前にはお祈りをしていて引いた」と返ってきた.

 その日の夜、私が相手の連絡先を消そうか迷ったことは言うまでもないが、「付き合っていられない」というのが正直な感想だった.

 彼は自分の実体験を説得力のある話として持ち出しつつ、知り合いの意見を横に添えた.
なんとサンプル数の小さい主張だろうか.
彼は彼の言う「ヤバい宗教団体」に所属していたり信仰を持っている人をたった数人見たことと、人伝に聞いた話をすっかり正当性のあるものとして捉えてしまっている.
なんと恥ずかしいことだろうか.
彼はきっといわれのない批判を受けて初めて被害者の気持ちを知るのだろう.

映画の良し悪しは観てから語れ.

 観たことのない作品について語ったとき、それは説得力のある主張だと言えるだろうか.
無論、NOである.

 知らない宗教(組織・教義・信仰を含む)に関して、内容を大して知りもしないのに、ましてや全く知らない状態で批判や否定を試みることがどれほど馬鹿なことなのか、考えなくても分かるだろう.
頭で分かっていても批判に走ってしまうことを人間のさがだとし、100歩譲ったところで浮上するのは、当人の未熟さや愚かさである.

 目の前にそんな人が現れれば「バカだなぁ」と思うのに、知らない間に自分がそのてつを踏んでしまっていることに気づかないのは、やっぱりバカ以下だからだろうか.
きっとそうなのだろう.

 そして悲しいことに、そんな彼らはこの文章を読んでも自分のことを言われているのだと気づかないのである.
これは本人にしてみればまさに悲劇であって、他人から見れば喜劇のようである.
ここまでの皮肉はフィクションでしか見たことがない中で、彼らとどう付き合っていくべきかが最大の難点であったりする.
「そんな人との関わりは切ればいい」と土足で上がり込んで主張する君には「ドウドウ」と言いつつ、「君も大変だよね」と言って出口に案内しよう.

要はシンプルだ、論より証拠で宗教を論破せよ!

 説得力のある、決定的な証拠を集めて論破しよう.
君が何かを主張するとき、どうやっても威勢だけではその場をしのぐことができないとき、脳裏に浮かぶのは「もっと準備しておけばよかった」という事前準備の重要性だろう.

 なに?俺私がしたいのは論破じゃない?
何を言っているんだ、「戦争は嫌だけどナイフで人を刺したい」とはどういうことだ.
しかも相手は数人単位じゃない、数百人から数千人の相手だぞ.
仮に小さなナイフだとしても、それほどの大人数を攻撃したいと考えていること自体が戦争だと分からないのか.
そんな生半可な気持ちや考えで誰かや何かを批判しようと考えているなら、君はきっと歩く害悪なのだろう.
いや、君は確実に害悪だ!〇ね!この害悪野郎!


宗教を批判するのが下手くそな君へ.

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