湯冷めする

特に湯冷めをしている訳では無い、が、もし私の言葉がいつか誰かに届くなら

今年に入って、友人を失い、父を亡くし、最近飼い始めた子猫が死んだ。
そして私は心も健全ではなくなり、病を抱えて今仕事を休んでいる。

この休みの中、兎にも角にも誰かに会わないと
誰かと話をしていないと気が狂いそうになる。
あれだけ得意だった孤独が今、狂気となってその刃を向けている。

失うものが多すぎた。
そしてそれが、ただの余り物ならいい物を、全て大切なものを失いすぎた。

自分の中で軸にしていたものや支えとしていたもの、何もかもが水のように手のひらから零れていくようで、
そんなに大きな桶が必要ならば、本当に神が居るのなら、どうして私にはこんな小さな手のひらしか与えてくれなかったのだろうと思う。
だから家系としては宗教に入っていても、基本は私は無神論者だ。
全ては結果と経過であり、私が引き起こしたもので、ならば人との縁とは何だと聞かれたら、それも全て運だと思う。

神や仏の導きなんてものはない。
そもそも人間が作った神や仏の概念など、私からしたらいい迷惑である。

ただ、最近鬱になればなるほど、海に還りたいと思う。
きっと水底は恐ろしいだろう、黒くて冷たくて、沢山の異物が沈んでいる。
それを分かっていても、あの汚い東京湾でいいから海を眺めたくなるのだ。

恋人と居ても孤独に感じるのならば、もう私に居場所は無くて、自分の中ですら自分を許容できずに居る。

海月のように、ただ何も考えずふわふわと海を漂うことが出来ればいいのに。
水分を多く含む海月は、それでも空っぽのように海を漂う。
私もそんな存在になりたい。

だから、海月になりたい時は、潮風をベタつくまで浴びながら、帰宅してから頭からシャワーを浴びるのだ。
そして、気力が残っていれば湯船に浸かって、ああこのまま沈んでしまいたいとさえ思う。
きっと死んでしまっても、失ったもの達には逢えないのだろうと考えながら、
人生は得るものと失うもののバランスが私にはハードモード過ぎないだろうかと考えながら。

きっと右腕には、秋頃蝶と海月と風媒銀乱が刻まれて、その痛みに生きている実感を得るのだろう。
早くこの世から消えるのなら、山茶花を入れてもいいかもしれない。
恋人はきっと恋人じゃなくても生活ができて、私は一人でも生活ができてしまう。
沢山の人に触れて、老いてそういったことに需要が無くなったら潔く首を吊る、そっちの方が理想的なのかもしれない。

もう誰かを何かを失いたくない。
失うことに疲れたのだ。

ああ、誰か背中からトンと押してくれないか。
「お前はもう終わっていいよ、疲れたろう」
そう言って、労いながら誰かからの終焉を与えられるのを待っている。
疲れた。もう疲れてしまった。
何かに追われることも、自分の本来のやりたいことができないことにも

本来は水のように生きたかった。
流れて、時に誰かに使われて、そしていつか海に還るのだ。
誰かが昔、私の文章を夏のプールの水底のような文章だと言ってくれたことがあった。
今でも水底から届けることはできているだろうか。

透明なあの液体達が愛おしくて仕方がない。
濁りのない、ただそこに資源としてある水を、どれ程焦がれたことだろう。

そしてそんな水の私に、誰かが口を付けるのだ。
誰かの中に入り込み、自我を持った水が誰かの60%を支配する。
それでも、代謝でいつかその人からはまた離れて、そして誰かの60%になる。
脈々と、しかし私は流れて、渡り流れるのだろう。
そっと誰かの仕舞いのほんの少しの液体になるのもいい。
誰か私に触れて、そして触れないで欲しい。
この矛盾を生きているから人間なのだろうなと思う。
そんな醜く泥臭いものではなくて、私は色の無い透明になりたかった。
風にも水にも空気にもなりたかった。
時には無機物で、正しく風媒銀乱のようなそこにただ在る無機質な「無機物」でもありたかった。
何かの思考に囚われることはなく、ただただそこに「在る」だけの存在になりたかった。
だから私の左腕には、それに近い幾何学模様が彫られている。
本来はこの生き方をしたかったと、未練がましく彫られているのだ。

ただただ、水のように。
海月のように、時に水面に映る揺れる灯りのように。
そんな風に、私は生きたい。

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