アイドルと多様性と協調性

わたしは昔から協調性のない個人主義者で、学校でもどこでもちょっと浮くし、大人数が苦手だし、ぶっちゃけ家族とか親戚とかにもあまり興味がない。

あと、ジャンルでいえば不思議ちゃんとか電波っていうやつで、とにかく人から理解されづらい。(自分でもよく「主観に不思議ちゃんが設定されてる人生、奇妙だぜ!」と思う)

ゆえに、園子温とかアラーキーとか、鬼才とうたわれるクリエイターが大衆から訴えられてるのを見ると「ふつうに生きていたら誰も理解してくれないのにクリエイションをした途端に手のひら返されて、何が本当かわからなくて怖かっただろうな」と、なんとなくそっち側に悲しくなってしまう方の性なのだ。個人的な思い入れはあまりないんだけど。


先日のエイプリルフールで、乃木坂46のメンバーが「OGメンバーと式を挙げました」という投稿をしたらクィアベイティングだといって炎上してたけど、わたし個人としては野暮…と言ったら言葉が軽いけど、あえて軽い言葉で野暮だなと言いたくなった。

アイドルとかアニメとかってハマるほど箱庭になっていくシステムになっていて、特にアイドルはわたしも長年ウォッチしてるので実感があるけど、たぶん非オタが思ってるよりは生々しく血が通っている。

もちろんアイドル自身は「ここまで」という線を引いてると思うしオタクはそれを踏み越えないのがルールだけど、その不文律こそがナマ物だったりして、要するに結構しっかり"個人"に触れられる。

なのでそういう箱庭コンテンツが外側から炎上するとき、構造としては差別偏見と同じだなと考えながら、同時にもうちょっと色んなことを考えて、あえて軽い言葉で野暮だなって言いたくなる。


わたしはプリ★パラのアニメが好きで、どこが気に入ってるかというと多様性への向き合い方がものすごく誠実だったからなんだけど、

プリ★パラのキャッチコピーは"みんな友だち!みんなアイドル!"で、女の子なら誰にでも届く"プリチケ"というチケットさえあれば誰でもプリパラに行って自分が思い描く理想のアイドルになれるという設定になっている。

(その上メインキャラにいわゆる男の娘がいて、その子が男だとわかるとみんな驚くけど、「プリチケが届いたんだよ」の一言でみんな納得する。そのくらいのことをしている。)

わたしが特に好きなプリ★パラ2期は、"みんな友だち!みんなアイドル!"に対して「そんな仲良しごっこだから最近のプリパラ界にはスターが現れないんだ」と異議を申し立てる天才くんがラスボスで、天才vs凡人という、多様性の甘くない部分をしっかりテーマに据えている。

最初は主人公を含む凡人チームが天才チームに大敗し、「じゃあ自分たちが頑張る理由なんてないじゃん」とへそを曲げるのだが、結果としては「才能がない自分たちだからこそ頑張る姿で勇気を届けられるんだ」という天晴れな着地をしてみせた。

その後、天才くんの心の奥底に秘められた本音が「家柄や才能だけ持て囃されて誰も本当の自分を愛してくれないから、もう人間を辞めて本当のアイドルサイボーグ(作中ではボーカロイドと呼ぶ)になっちゃいたい」というものだと知り、凡人チームはそんなことを許しちゃいけない!とより一層気持ちを強くする。

最後は何度でも真っ直ぐぶつかってくる凡人チームのアツい心に天才くんはしてやられ、周りをバカだと見下していた自分こそがバカだったと自嘲的に笑って終わるのだ。

わたしが勝手に感じている鬼才・天才クリエイターの悲しみにちゃんと触れられていて、昔からなんとなく鬼才側の肩を持ってしまうわたしとしては、すごく救われた気持ちになったアニメだった。
過去読んできた大抵のフィクションでは鬼才・天才って悪役だったから。
それに、希望を描くべき子ども向けコンテンツが今はこんなことまで真摯に触れているんだって思ったら、未来を明るく感じて嬉しかった。


話を戻して、何が言いたいかというと、アイドルって個人対個人を叶える多様性とめちゃくちゃ噛み合わせがいいステージだっていうこと。
プリ★パラ2期は、出来の上下よりも個人の涙や汗を受け取ることをよしとされるアイドルという土俵(設定)が叶えた結末だと思うから。
だからアイドルが外から炎上すると、それ以上も以下もなく、野暮だなと思う。


更に、最近もうひとつ衝撃があった。

ジャニーズJr.のtravis japanのWODの動画を見て、あまりのかっこよさに震えたのと、同時に素人目ながら「え!?ふつうに通用するじゃん!?」と感じたこと。
(結果、3位入賞の本戦出場という見事過ぎる結果を叩き出した)

なんでわたしがそう感じたのかなと考えると、個々人のダンスのクオリティが高いのはもちろんだけど、チームワークの良さだったと思う。
なんか、全体からすごくしっかりした地盤みたいなものを感じた。
たしか渡米して1日やそこらですぐコンテスト当日だったと思うけど、あんな状況であんなに堂々とパフォーマンスするなんて、まずそこが凄過ぎる。
地盤がしっかりしてないと出来ないと思うし、それは誰かに教えられたものでなく自分たちで築いたオリジナルじゃなきゃブレても仕方ない状況だったと思う。


ここからは1オタクのオタク語りですが、、


わたしは3〜4年前くらいから動画や配信や雑誌でライトにトラジャを見ていて、なんというかものすごく内向的な人たちの集まりだなぁと感じていた。
シンクロダンスをテーマに掲げているグループだから、スタンドプレーに走る人は必然的にいなくなるのかな?とも思っていたけど、それにしても"家族"ぶりがすごかった。
アイドルが自分の所属グループを家族と形容するのはよくあることだけど、大抵の場合はそれは自分が帰る場所という意味だと思う。
トラジャの家族ぶりは一味違う。"家族"をしている。

個人的に一番衝撃だったのは、islandtvに上がっていた渡米前ラストのにゃんにゃんの日の動画。

にゃんにゃんの日とは、メンバーのノエルくん発足のアイデアで、毎月22日をにゃんにゃんの日と称してメンバーに自前の猫耳をつけさせる狂ったイベントなのだけど、月を重ね、22日はカレンダーでは15(イチゴ)日の下に来るからショーケーキの日でもあるらしいという新知識も挟み、最終的には"全員で猫耳をつけてテーブルを囲みケーキを食べる"という奇習として定着した。

わたしは元々協調性がなく、家族イベントへの参加もあまりしないタイプなので、トラジャのこの感じにビックリした。そして面白かった。

大島渚監督の『儀式』という映画に「冠婚葬祭は何か事件が起きるから行かなきゃ損よ…」というセリフがあって、わたしはそれが好きなんだけど、トラジャを見てるとそれを思い出す。
ニャン婚葬祭は何か起こるから見なきゃ損よ…と思うようになった。

猫耳をつけてテーブルを囲みケーキを食べるのは絆とかではなくふつうに異常だけど、異常事態を否定せず受け入れ誰1人欠けることなく定着させること。
これが家族で、チームワークで、トラジャが7人で築き上げた地盤なのかもしれないと思った。


その上で更にすごいと思ったのが、ちゃんとこの7人である必要性があるというところ。
元々彼らのダンスは喋ってるみたいで見ていて楽しいから好きだったんだけど、イコールちゃんと一人一人の個性が見えてるってことだと思う。
曲によっては全体を見てた方が楽しいものもあるけど、個人×7で楽しい曲もちゃんとある。

たぶん、協調性とチームワークをメインじゃなく地盤に持っていって、その上で一人一人が目一杯踊ってるんだと思う。

ダンスに関しては全然素人なので、なんかすごい!かっこいい!伝わるぜ!くらいのことしかわからないけど、人としてめちゃくちゃすごいことをやってきてると思うし、だからいきなりのアメリカでもあそこまで出来たんだろうなと思う。


何が言いたいかというと、プリ★パラの凡人チームの輝きってほんとうに凄かったんだなってこと。

トラジャが凡人と言いたいわけでは決してなく(むしろとってもSpecial)、一人一人の自主性に基づいた協調性ってほんとうに力を何倍にも膨れ上がらせるんだなっていうことを、マジでようやく思い知った。

自分が協調性のない不思議ちゃんでやらせてもらってきたので、チームワークって自我を殺してやるやつだと思ってたけど、ああいうのもあるんですね。
と、まんまと悪役みたいなわからせられ方をしてしまった。


そんなこんなで今度、ひさしぶりに親に誘われた温泉旅行に行ってきます。(オチ)

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