世が世なら死刑

自分はダーク・ファンタジーが好きなんだなと最近自覚した。
自覚したというより受け入れたと言った方が正しいかもしれない。

わたしは昔から若干浮いていて、浮いているのにいじめられないという治外法権的なポジションになりやすかったのだけど、第一の原因は“よくわからないから”だと思う。 
昔はどちらかというと賢い子という位置で、絵が得意という一芸もあったので、褒められた記憶はちゃんとあるのだけど妬まれることはほぼなくて「よくわからないけどなんかすごいね」というかんじだった。
人間関係のゴタゴタを免除されやすかったのはありがたかったけど、漠然とした疎外感や孤独感はあって、当たり前すぎて自覚してなかったけど寂しかったなぁ…というのを、去年頃ようやく受け入れた。

そういう孤独なモンスター的人間だったので、当たり前のように“みんなに理解してもらう努力”と“みんなを理解する努力”をしてしまう。
「よくわからないけどなんかすごいね」とうのは、なんか本当に評価してもらっている気がしない。
いくら寂しかろうと、欲しい評価が欲しければそれをもらえるように頑張るのがスジだと思っていたので、寂しいというのも大人になるまで気づけなかった。
(というか、節目節目に馴染む努力(グループでつるんだり文化祭やったり)はしていて、した上で面白くないという理由で自ら外れてきたので寂しいとかいう資格はないと思っていた。)

寂しかったとようやく自覚したときは自分が可哀想で3日くらい泣いたんだけど、寂しいを受け入れたからなのか、最近は本来の趣味であるダーク・ファンタジーの部分が目を覚まし始めて、人生が楽しくなった。

そして先日Huluでヴァチカンのエクソシストのドキュメンタリーを見た。
ぼーっと見たので詳細は忘れたけど、とにかく狂っている人々がいて、その人たちには悪魔が憑いていて、その人たちを偉いエクソシストが待つ荘厳な施設へ連れていって、悪魔祓いをして正常に戻すみたいなかんじだった。
自分が無宗教JAPANで生まれ育ったからだと思うけど、なんか、これは宗教が根付いた土地で生まれ育つことによって生まれつき洗脳状態にある人々が、成長する過程で得た自分なりの経験や所感により洗脳が解けそうになって、その拒絶反応を悪魔が憑いてると呼んでいて、エクソシストは手の込んだ設備と仰々しい雰囲気でさらに強固に洗脳を掛け直しているのでは?と思った。

後日、その推測を宗教マニアの友人に話したら、人は成長する過程で自分の価値観や世界観などの基盤を築いていくもので、それを手伝うのが宗教で、揺さぶるものが洗脳なので違います、という返答をもらった。なるほどと思った。
たしかに、いつぞやに見たX JAPANのToshIのドキュメンタリーでも、X JAPANは悪だと洗脳されたのに再結成を命じられたのが洗脳が解けるきっかけになったと言ってたのでそれが正しいと思う。

しかしわたしの説も間違いではないと思う。
何故ならわたしは地元の空気や母校の校風、正直な話家庭環境も洗脳だと思っており、その感覚ならわたしの説も理屈が通るから。
聖書や神話でも、英雄になるのは神の言葉を狂気的なまでに信じてたとえ血縁者であろうと生贄に捧げるような人だけど、わたしはそっち側の素質があると思う。

友人からは「あんたはもし親が新興宗教の教祖とかだったら神童と呼ばれて、刑務所に入っても主張を変えずに新規信者を集めるホンモノになってた可能性がある」と言われて、想像がつくと思った。
(うちの親はサラリーマンなのでそういうことにはならなかったし、なんならかなり良識ある親に育てられたので並のモラルはある)

もしかしたら、なんとなく浮いてたのって、わたしと話してると何かが壊れそうで怖かったのかもなと思った。

わたしはダーク・ファンタジー好きらしく占いが大好きなのだけど、四柱推命か何かだと「家系を終わらせる」という結果が出る。
占いの解釈って時代ごとに変わるのも面白くて(たとえば昔ではバイタリティのある女は凶とされていたり、逆もまた然り。だから未だに不吉な名前がついてたりする)、わたしは時代が時代でしかるべきところに生まれていたら英雄だったし、逆に世が世ならふつうに死刑だったと思う。死刑の説の方が濃厚。

のうのうと生きられる世界に生まれてよかった。
わたしの理想の世界になるのはわたしが生きてる内には無理だと思うけど、世が世なら死刑だったしラッキーくらいのかんじで生きよう。

根明でよかった〜🍀

座右の銘、世が世なら死刑。

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