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日本と移民

(初心に戻るため)昔の日記を公開しています。

2015年11月28日(1:50)

「移民」というものをに、常に興味を持ってきた。

私のひいおじいちゃんは、赤貧からか、真夜中の神戸港から海に飛び込んで、ほにゃららしてアメリカに渡って商売したらしい、父方の祖母の弟(我が家での呼称:アメリカのおじさん…)も大学後からアメリカに渡り、永住権を取得して今も暮らしている。

労働力が足りなくなるからと、日本が移民の受入を検討しているよう。
日本は、移民を受け入れる体制が出来ているのだろうか。完璧まではいかなくても、体制を作ろうとしているのか。

大学時代に衝撃的な出来事を経験したことがある。出張授業をするために訪れた都内の中学校に、日本語や英語が話せないブラジル人の女の子がいて、ディスカッションに入れない様子を担任の先生に伝えると、「お客さんだから放っておいて」と発言したことだ。対応方法を考えている間に、彼女は早退してしまった。今でのこの悔しさが忘れられない。

こんな現状はおかしい、日本も今後もっと海外からの移民が増えるだろう…実際を見てみたいと思い、ロンドンとドイツに数ヶ月ほど住んでみた。

バングラデシュ移民を受け入れるファームでは、バングラデシュの野菜を移民したお母さん達がつくっていた。子供たちと映画を作るプロジェクトに参加したときは、ほぼ全員が違う国籍を持ちつつ、共通言語の英語で一つの映画を作り上げていく過程に参加させてもらった。

卒業旅行では、日本の移民の歴史が知りたく、アメリカ、メキシコ、キューバを旅し、日本移民のゆかりの地を巡った。

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キューバにある日系人慰霊堂

日本の移民の歴史は、1800年代のハワイ移民から始まり、ブラジルに移民が渡り始めたのは1906年頃。当時は明治政府の近代化によって農村が崩壊し、農民が都市に溢れだすが、都市もその人口を吸収できるような豊かな状態に無かった。国策として始まった移民政策…。日本が貧しかった時代。

生まれたときから、"異文化"が隣り合わせの世界、違うことが当たり前の世界、日本にはあまり見られないところだと思った。

生易しいことは言えないけど、私は「違い」や「衝突」があるからこそ、新しいものが生まれると思っている。それを許容していくことで、「生き易さ」が生まれると思っている。日本にいると、あまり「違い」を感じることが少ない。

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