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建築と観想

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が2016年5月28日から11月27日まで、イタリアのヴェネチアで開催された。2年に一度開催され、建築界のオリンピックとも称される、各国が鎬を削る建築界の祭典である。その日本館の展示「en[縁]:アート・オブ・ネクサス」は来館者に高評価を得て、審査員特別表彰を受賞した。その記録が『en[縁]:アート・オブ・ネクサス 第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館カタログ』としてTOTO出版から刊行されている。
カタログは、建築と「人の縁」「モノの縁」「地域の縁」と、3部構成になっている。縁とは何か。この言葉は仏教に由来するが、第一の意味は「偶然の出会い・つながり」といえるだろう。世の中は偶然の出会いに満ちている。そして偶然の出会いを大切にし、一緒に生きていこうという信念のことである。また、縁は、建築に引きつけていえば「へり」「ふち」を意味する言葉でもある。一定の生活の場の周囲を取り巻く境界だが、場を閉ざすのではない。生活の場を外の世界へと開き、内と外とが相互に作用し接触していくことを指す曖昧な言葉でもある。その意味で西欧的な部屋の壁や城壁といった画然と境界を画すというニュアンスとは異なる。
第一部「人の縁」では、集住(シェアハウス)やリノベーションにおいて1階の倉庫を大きなリビングに作り替える試みなどが紹介されている。第二部「モノの縁」では、日本建築がもっている木造の屋根の単位を生かして一つの家を三つの家に分解する試み――そこには、これから人口のさらなる減少が見込まれる日本の地方では、建物を新築・増築するよりも、古い建物を減築することで豊かな空間や暮らしを得られるのではないかという認識がある――などが紹介されている。第三部「地域の縁」では、徳島県名西群神山町のサテライトオフィスなどが紹介されている。
唐突だが、米疾病対策センター(CDC)は9月18日、新型コロナウイルスの空気感染を確認したと報じられた(その後、CDCは18日の改訂文は誤って公開されたと現地時間21日に発表し、空気感染に関しての新しい文を撤回した。現在ガイダンスの更新内容は下書き中で、更新準備が出来次第新しく改訂するとのことである。)。このコロナ禍にあって、縁、すなわち人と人とのつながりは可能だろうか。たしかに、首都圏の大都市などは週末になると混み合っている。仕事もオンライン会議から通常の出勤へと切り替わったところも多い。だが、空気感染を除いても、世界はこれまでの世界とは確実に一変してしまった。ソーシャルディスタンスを保ち、マスクをし、場合によってはフェイスシールドやアルコール消毒液、使い捨て手袋などを使う。今でも三密を避けるということがいわれ、会議室の中で密集することは避けられている。この状況がいつまで続くかも分からない。
そのような中にあって、縁、つまり人とのつながりをどう保てばよいのだろうか。今ではZoomなどを使ってオンライン会議やオンライン飲み会なるものが開かれている。ここではそうしたものとは違った方向を示したい。
カトリックの哲学者ヨゼフ・ピーパー(1904~1997)は、その著書『余暇と祝祭』で、真の余暇について述べている。余暇とは、労働に従事している人間に労働以外の有意義な活動の場を与えること、真実の余暇をもつ可能性を開いてやることである。本当の余暇は無為ではなく、まさしく活動である。どのような行為で余暇をみたすべきか。本当の意味での余暇の実現とは、余暇の本質である祭りを祝い、礼拝することにある。つまり、祝祭を可能にするものがそのまま真実の余暇を可能にする。
祈りという言葉が宗教的な意味合いが濃いのならば、観想(コンテンプラチオ。本質を見ること、在るものを見ること、心を開いて見ること)とも言い換えられるだろう。日本文化に置き換えていえば「晴れと褻(け)」の構造が日常生活に根付いているともいえる。
以上のような示唆から、私たちは、寺社仏閣や教会、さらには一人きりの部屋でも、ともに「祈る」こと、あるいはともに「観想する」ことで、生活を充実したものとすることができないだろうか。今は西欧的な、内と外とを画然と区別する「境界」が必要であるかもしれないが、そうしたともに「祈る」場、ともに「観想する」場として建築があるのではないだろうか。

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