(芸術は)現状を麻酔みたくごまかすためにあるのではない(マヒト)

「民族浄化というおぞましい行為を前に音の意義を問われている。音楽は平等にある生の喜びを鼓舞するためにあり、現状を麻酔みたくごまかすためにあるのではない。」(マヒトゥ・ザ・ピーポー @1__gezan__3 2023年12月6日のXにおけるポストより)

全てがシミュレーションのシミュレーション、シミュラークルと化した世界で欲望は資本主義によって駆動されている。経済原理によって我々は「これが自分の本当に欲しいものだ」と刷り込まれている。ポスト・トゥルース時代における「全ての表象はフェイクである」という命題。コロナ禍で増幅された陰謀論。欲望は欲望であることをやめる。それは無意識のサブリミナル効果として、「この道しかない There is no Alternative」と人々を諦念させる。「真理などない」と結論づけるのは容易い。人々は「本当の」真理ではなく、「欲しい」真理を求める。

労働は盗む。時間を。体力を。心を。ヒルのように。生かさず殺さず。

プラトンは地上の世界をイデア(天上界、理想郷)のミメーシス(模倣)とみなした。絵画や写真は模倣の模倣、ミメーシスのミメーシスである。だが今や世界はシミュレーションのシミュレーションに満ち、シミュラークル(偽物)をオリジナルと変わりなく、否、オリジナル以上に崇める。アウラの消失。VR、WEB3.0、生成AI。

後期資本主義。ポスト・フォーディズム。欲望はその向きを変えられ、マーケティングの焦点となり、心理学が応用され、コントロールされる。我々の欲望はルールのないマーケティングの戦場と化している。そこには「本当の自分」さえシミュレーションのシミュレーションである。

ミケル・デュフレンヌによれば、芸術作品の鑑賞者は鑑賞体験を通じて根源的な<自然>に気づくことができる。雰囲気(情感的なもの)を介して、人は世界とつながっている。
ここで冒頭のマヒトの言葉に立ち返ろう。芸術を鑑賞する、あるいは創造することは自己慰撫ではないと誰がいえるだろう。「現状を麻酔みたくごまかす」ための芸術。それに対してマヒトは「音楽は平等にある生の喜びを鼓舞するためにある」という。
デュフレンヌにおける根源、すなわち<自然>に気づくために芸術はあるのではないだろうか。

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