見出し画像

とある家族の物語

とある家族の物語  作:高木優至
 
 
ガタッ。
ガタガタガタッ。
 
建付けの悪い窓を開けて朝の光を浴びる。昨日とは打って変わって風が少し肌寒い。悟は「ふぁ~あ。」と一つ欠伸をすると、二階の窓から庭を見下ろした。そこでは妻の友子が洗濯物を干している最中だった。
こちらに気が付くと、にっこりとほほ笑んで軽く手を振っている。こちらも優しく振り返す。また洗濯物を干し始めた友子から“森のくまさん”が聞こえ始めた。どうやらご機嫌のようだ。
その歌声に誘われるように、小さな影が近づいてきた。娘の菜津だ。先月3歳になったばかりのこの子は、何でも親の真似をしたがる年頃の様で、今も友子に「はい。」と言っては元気よく洗濯物を手渡している。「ありがとう。」と言って受け取る友子との二人の姿は、いつまでも見ていられる……がそういう訳にもいかず、眠い目をこすりながら下に降りると、洗面所でパシャパシャと顔を洗った。膝裏にトンという衝撃を感じた。振り返ると菜津がギュっと私の両足にしがみ付いている。
 
「おはよう。なっちゃんも洗うか?」
 
聞きながらひょいと娘を拾い上げた。菜津はぶんぶんと首を横に振りながら、
 
「ううん。もう洗ったもん。」
 
と得意げに言った。少し寂しさを感じながら「そうか。」と言って娘を下ろした。ニィイと満面の笑みを浮かべながらこちらを見ている。「偉いね。」と言って頭を撫でてあげた。それに満足したのか、台所にいる友子の方へ向かって走って行った。とても愛おしい。
後を追うように台所へ行くと、ベーコンの焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐってくる。
 
「おはよう。もう少しでできるから待ってて。」
 
友子が料理の手を休めるでもなく話しかけてきた。右足には菜津がずーっとまとわりついている。
 
「よくそんなんで作れるもんだな。」
「そう思うなら助けてください。」
「ああ、ごめん。」
 
悟は慌てて友子の足にまとわりついている菜津を引きはがし、そのまま肩に乗せた。当の娘は無邪気にキャッキャと笑いながら、悟の頭や頬っぺたをぺちぺちとしている。何とも鬱陶しい。……が、嫌いではない。
 
「パパをペシペシしないの。」
 
友子が注意をしてもやめる気配はない。そんなことでやめる様な菜津ではないのだ。
 
「ほら、見てごらん。ママが美味しそうなベーコンエッグを作ってるよ。なっちゃん好きだろ?」
「うん、しゅき。」
 
思わず悟の頬が緩む。この菜津の“しゅき”が聞ければ、悟は死んでも良いとさえ思っている。
 
「もうすぐご飯だから、座って待ってようね。」
 
悟がダイニングテーブルの椅子に菜津を座らせていると、友子が出来立てのベーコンエッグを運んできてテーブルに並べた。
 
「手伝うよ。」
「ありがとう。」
「菜津も。」
「なっちゃんは座ってて。」
「菜津もやるの!」
 
言い出したら聞かない菜津は、椅子から降ろされると友子の方へ走って行った。自分のコップを渡されると嬉しそうにまたこちらに戻って来て、ニィイと悟に笑いかける。悟も笑顔を返す。朝食の準備を終えると、友子も椅子に腰を下ろした。
 
「いただきます。」
 
おぼつかない手でスプーンを握りしめた菜津が、カチャカチャとスクランブルエッグと格闘している。友子が横からスクランブルエッグを差し出すと、パックっと一口。変わらないいつもの光景。思わず口元が緩む。
朝食を終えると、悟は仕事へ行く準備をして玄関へ向かった。
 
「行ってらっしゃい。」
 
後から来た友子が“行ってきます”のキスをしてくれるのが、我が家でのお決まりなのだ。
 
「パパ。」
「ん?」
「行ってらったい。」
 
菜津も友子の真似してキスをしてくれる。こんな幸せな朝がずっと続くと思っていた。それから数十分後の事。友子の携帯が鳴った。
 
「え、そんな。」
 
友子の顔が一瞬で青ざめる。病院からだった。悟が車に轢かれて運ばれたという知らせだった。幸せな瞬間は、その一瞬で脆くも崩れ去っていった。最後のお別れも言えないまま、悟はこの世を去っていった……はずだった。
 
目を覚ますといつもの天井が見えている。
 
「あれ? 俺は…。」
 
おぼろげな記憶を思い出しながら、悟は窓に手をかけてガタガタと開けた。庭では友子が洗濯物を干している。目覚まし時計を見ると9月27日となっていた。
 
「デジャブ?」
 
始めはそう思った。しかし、2度、3度。4度5度と。何度も何度もこの朝を繰り返すと、夢ではない。そう思わない訳にはいかなかった。何度も何度も車に轢かれ、何度も何度もおはようと挨拶をした。
何かが変わるかもしれないと通勤の道を変えたりもした。それでも未来は変わることなく私を殺し続けた。ある時は会社に連絡してずる休みもしてみた。だが、身代わりとでもいうかの様に、買い物に出かけた友子と菜津が車に轢かれて亡くなってしまった。悟が病院で二人に対面した時、絶望と失望のあまり崩れ落ちるように気を失ってしまった。目を覚ますと、また見慣れた天井が見えた。27日の朝が当たり前の様に何度も何度も悟を襲ってきた。
 
「どうしてこんな…何度も何度も俺が苦しまなきゃいけないんだ! なんでなんだよ。なんだ、面白いのか? そうだろうな、面白くてしょうがないだろうなぁ! 高みの見物なんて、さぞや面白い事だろうよ…。」
 
居るのか居ないのかもわからない神様に食って掛かった。だが答えは何もない。小鳥の声だけが静かに部屋に響いていた。ばふっと枕に顔を埋める。悟は気が付いてしまったのだ。もしかしてここに執着しているのは自分なんじゃないのか? 友子と菜津。この二人と離れる現実からどうにかして抜け出したい。そんな自分勝手な我儘を、現実を捻じ曲げてでも押し通したいのではないのか…という事に。
 
(このままではみんなずっとこの場所に…いいのか? 私の我儘でずっと二人をこの時間に縛り続けてしまって…本当にそれでいいのか?)
 
とりあえず下に降りて洗面所で顔を洗った。いつもの様に菜津が両足にしがみ付いてくる。
 
「おはよう。なっちゃんも洗うか?」
 
自分の足にしがみついている小さな頭に声をかけた。菜津はぶんぶんと首を横に振りながら、
 
「ううん。もう洗ったもん。」
 
と得意げに言った。「そうか。」と言って頭を撫でた。菜津がニィイと満面の笑みを浮かべてこちらを見ている。胸がギュウウっと締め付けられた。この笑顔にもう会う事が出来ない…そう思った瞬間。目頭が急に熱くなり、涙が零れ落ちそうになった。思わずもう一度顔を洗う。菜津が不思議そうな顔でこちらを見ているので、平静を装って髭を剃り始めた。すると、菜津はつまらなくなったのか台所にいる友子の方へ走って行った。
 
台所に行くとベーコンの焼ける香ばしい匂いが、相変わらず悟の鼻をくすぐってくる。
 
「おはよう。もう少しでできるから待ってて。」
 
後ろを向いたままの友子が話しかけてくる。悟はヒョイっと友子の足にまとわりついている菜津を抱え上げると、そのまま肩に乗せた。
 
「あら、ありがとう。」
「どう…いたしまして。」
 
このまま後ろからギュッと抱き締めたい衝動に駆られた。そんな空気を読まない菜津が、無邪気にキャッキャと笑いながら悟の頭や頬っぺたをぺちぺちとしくる。本当に鬱陶しい。……が、これも最後なのかと思ったら、ふと涙が零れ落ちた。
 
「ほらパパ泣いてるじゃないの。ペシペシしないの。」
 
違う、そうじゃないんだと思いながらも、やめる気配のない菜津に少し気を削がれた。本当に変な所が私に似てしまったものだ。と思わず呆れつつ、嬉しくもあった。
 
「ほら、菜津。見てごらん。ママが美味しそうなベーコンエッグを作ってるよ。なっちゃん好きだろ?」
「うん、しゅき。」
 
思わず涙が溢れてしまった。
 
「ねえ、パパ何で泣いてるの? 痛かった? ごめんなしゃい。」
「ごめんなさいが言えてなっちゃんは偉いねー。」
「いや、何でもない…大丈夫。」
 
グッと涙をこらえると菜津を椅子に座らせた。この先この子が色んな事で戸惑い、傷つき、悲しみに暮れる事があっても、自分は何もしてあげられる事ができない。そう思うと、どうしようもなくて、やるせなくて、堪らなく胸が苦しくなった。
朝ご飯を作り終えた友子が、出来立てのベーコンエッグをテーブルに並べた。
 
「友子。」
「何?」
「ごめん。」
「え、何が?」
「いや、何となく。」
「変なの。」
 
違う。そんなことが言いたいんじゃない。バカか俺は。俺が言いたいのは。
 
「ありがとう。」
「えっ。」
「俺と一緒にいてくれて、ありがとう。」
「何?どうしたの急に?」
「いや、その…菜津も生まれてきてくれて、ありがとうな。」
「どうしたの?パパー。」
 
二人とも不思議そうな顔をしてこちらを見ている。もちろん本当の事など言えない。この朝の幸せな瞬間を、一瞬にして悲しみに包む事なんて、俺にはできない。
 
「変なこと言ってごめんな。さあ食べよう。いただきます。」
 
悟が食べ始めると、二人も「いただきます。」と言って朝食に手を伸ばした。菜津はおぼつかない手でスプーンを握りしめながら、カチャカチャとスクランブルエッグと格闘している。友子が横からスクランブルエッグを差し出すとパックっと一口。今日も変わらないいつもの光景。もう見る事が出来ないいつもの光景。
朝食を終えると悟はいつもの様に仕事へ行く準備をし、玄関へ向かった。
 
「行ってらっしゃい。」
 
後から来た友子が“行ってきます”のキスをしてくれる。これも最後。
 
「パパ。」
「ん?」
「行ってらったい。」
 
何も知らない娘がチュッとキスをしてくれる。これも最後。恥ずかしそうに照れ笑いをしている娘を見ながら、悟はこの人生で一番最高の笑顔を、できうる限り精一杯の愛情を込めて、娘に笑いかけた。そしていつまでも名残惜しそうに、菜津の頭を優しく優しく撫でた。
 
「行ってきます。愛してるよ。」
 
玄関を開けると、肌寒い風が悟の頬を優しく撫でた。それはいつもと変わらない、通勤前の朝だった。前に進むために、悟はその一歩を、あの場所に向かって、歩き始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?