良いところを伸ばすために

〈この記事は2022年9月に私の教室の会員さんに向けて書いた記事です〉

私は合氣道指導員ですので、指導法については色々と感ずるところ、考えるところがあります。心身統一合氣道会の中でも、最近「指導」とは何か、というテーマが話されておりますので、そのことについて語ってみたいと思います。

●指導とは

「指導」という言葉を検索してみると、「ある目的に向かって教え導くこと」とありました。まあそういうことだよな、という感じです。ここで考えるべきは、その方法ということになるかと思います。「導く」という言葉は、心身統一合氣道の稽古の中では、とてもよく使われます。それは、相手を投げる時のことです。心身統一合氣道においては、相手を投げることを「導く」と表現するんです。それはつまり、「相手の意志に関係なく、こちらの思う通りにコントロールして倒す」という発想はしていない、ということです。
このことは、「心身統一合氣道の五原則」に表れています。この五原則は、別名「人を導く五原則」と言われています。とても大切なことですので、昇級審査や昇段審査の中では、これを暗唱したり筆記したりすることになっています。

『心身統一合氣道の五原則』
一、氣が出ている
二、相手の心を知る
三、相手の氣を尊ぶ
四、相手の立場に立つ
五、率先窮行

長くなるので詳細の説明は省きます。教室で質問してくださいね。

二、三、四、に「相手の・・・」とあるように、相手の状態を知り、それを尊重することが、人を「導く」ためにはとても大切だ、ということです。相手を思い通りにコントロールする、というのは、この考え方とは相容れないものですね。「目的に向かって導く」という時に、そこに「強制」や「脅迫」があるのは、おかしいということになります。
しかし自分を振り返ってみても、特にこどもへの接し方の中で、この「強制」「脅迫」を「指導」と勘違いしてしまっていることはあるように感じます。「ちゃんとしなさい」「ちゃんと聞きなさい」「早くしなさい」、などと大きな声で押しつける時、相手がなぜそれが出来ていないのか、相手の立場に立って考えてみたり、実際に相手の声を聞いてみたりすると、実はきちんとした理由があったりすること、ありませんか?相手が悪意でそれをしないのではないか、と疑って接してしまうと、「強制」「脅迫」を発動して押しつけようとしてしまう、そんなことありませんか?
「本当は誰もが、どうするべきかをちゃんと分かっている」、という前提で相手に接することで、こうした疑念を持たずに、ちゃんと相手の考えを理解して導くことができるようになるのではないでしょうか。その上で明らかになった理解不足や認識不足があれば、それを補ってあげることで、相手が出来るようになる。そんな風に「指導」できれば良いのではないか、と私は考えています。いつでも出来ているかどうかは別として。。。

●ほめて育てる、が良いのか?

こういう言い方をしていると、人によっては、「なるほど、叱るよりも、ほめて育てる、ってことね」と思われる方もいるかもしれません。確かに「叱る」を、「出来ないこと、マイナスなことを指摘する」と捉えると、それ自体はあまり良いものとは思えません。出来ないことにフォーカスして、ここがダメ、あそこがダメ、とダメ出しばかりをすることが、指導者のすべきことではないと思います。でも、実はこのダメ出しをするのは、楽なことです。指導者はその道の先を行くものなわけですから、生徒さんの至らない所を見つけるのはとても簡単です。でも、それで人は育つのでしょうか?

私が以前学んだことがあり、とても氣に入っている考え方があります。それは、「叱る」「ほめる」は表面的なことであって、それ以前に「信頼関係」という土台が出来ているかどうか、が重要なのだ、ということです。例えば、職場の上司が普段から上役に媚びることばかり考えて、現場を顧みることもなく、コミュニケーションが取れていなかったとします。そんな上司に、「今回の案件、よくやったな!」とほめられたらどう思うでしょうか?「へっ、数字が上がった時だけほめやがって、どうせ自分の成績になるから喜んでるだけだろ!」と、全然プラスにならないのではないでしょうか。反対に、普段から仕事ぶりをつぶさに見ていて、日々の取り組みを認めてくれて指導してくれているような上司であったとすれば、何か失敗をした時に「どうしてこんなことになったんだ!お前らしくないじゃないか!」なんて叱られても、反発したりすることなく、素直に受け入れられるのではないでしょうか。

ただ何でもほめれば良い、その考えに立つことは私はしていません。それでは、「ほめられなければ何も出来ない」という人が育つだけです。出来るだけ日々の動向に目を配り、良くなった所、出来るようになった所に着目して、それを承認して共有する。そんな風に接して、結果として「良い所を伸ばす」ことが出来れば良いのではないでしょうか。出来ないこと、不得意なこともあります。しかし、それを無理強いして矯正していくのではなく、なぜ出来ないのかを一緒に探して、寄り添って改善の工夫をしていく。そんな指導を出来たら良いな、と考えております。もちろん、全ての会員の皆様に満足していただけるレベルでこれが出来ている、とはとても言えません。そこは力不足で申し訳ございません。そこへ向かっていく氣持ちではおりますので、見落としている時はぜひご指摘をください。改善してまいります。

●プラスの教え

心身統一合氣道が目指しているのは、「プラスの教え」であることです。それは、プラスのこと、出来たことだけ見て、ほめて育てる、という意味ではないと思っています。直すべき点、変えなければいけない所があることも、時にはあるでしょう。そういう時はもちろん、「叱る」ということもあります。但し、相手をへこませて、マイナスになってうなだれて帰っていくような叱り方は、「プラスの教え」とは言えないでしょう。叱られることで、何が問題でどうするべきなのかがきちんと理解出来て、自分にもそれが出来るのだ、そうなろう!、と思えた時、人はプラスになれるはずです。そうすることこそが、「指導」だと考えます。

この時、叱る相手のことを、「こいつはどんな育ち方をしてきたんだ」とか、「こいつの性格は捻じ曲がっている」、などと、そもそもマイナスな人間であると捉えていたとしたら、プラスに導くことは出来ないでしょう。相手が「相容れないもの」であり、「異物」であるからです。誦句集の「一、座右の銘」にある、「万有を愛護し、万物を育成する天地の心をもって、我が心としよう」、という一文とは、全く異なる考え方ですね。総てが天地の意志によりこの世に生まれ、総てが存在する意義や価値があるのだ、という根本原理に立つことで、このような相手を異物として捉える発想を免れることが出来ます。相手が本当は良いものを持っている、良くなる心を持っていることを信じているかどうかによって、人への接し方は大きく変わってしまうでしょう。このことが「指導」には如実に現れてきます。

つまり、指導者自身の潜在意識がマイナスに染まっているようでは、人をプラスに導くことなど出来ない、ということですね。まず自らがプラスであること。その心で人と接することで、相手をプラスに導くことも出来る。そう考えて、日々自らを顧みて修行を続ける、そうしなければ「指導」は出来ないということですね。
「指導」は、いわゆる「先生」と呼ばれる人だけが行うことではありません。こどもを育てる「親」の立場や、学校や職場などでの先輩後輩の関係でも、友達の間柄でも、人を導く場面は誰にでもあり、誰もが「指導者」の立場に立つことがあります。どんな場面でも、人をプラスに導くことの出来る人間でありたい、そんな風に思いませんか?
何度も言いますが、私がこれを出来ている、というつもりは全くございません。是非、皆さんと一緒に、こうした理想を実現できるように、日々修行していけたらと思っております。

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