志は氣の帥なり

〈この記事は2021年12月に会員の皆さんに向けて書いたものです〉

2021年最後の悠悠合氣道通信です。昨年に続いてとても大変な環境が続いた一年でした。これが当たり前になってはいけないと、心底思います。本当のあるべき姿は、我々全員が心の奥底では知っています。その通りにいかに生きていくか、それがこれから更に問われる時代になっていくのだと感じています。周囲の環境はますます激動の大波となっていくと思われますが、皆さんはそれに流されない心の支えとなる柱をお持ちですか?信念、哲学、生き方、あり方。。。そういうものを確立して生きていることが、これからの時代の中で大きな武器となっていくと思っています。私はそれを心身統一合氣道を通して学んで、お伝えしています。皆さんにとっても、そうであったらとても嬉しいです。

今回のコラムのタイトルは、「孟子」の一節です。
”それ志(こころざし)は氣の帥(すい)なり、氣は体の充なり。
  それ志至り、氣次ぐ。故に曰(いわ)く、その志を持し、その氣を暴することなかれと。”

『「孟子」は人を強くする』(佐久協著:祥伝社)には、その一節の説明が次のように書かれています。
「そもそも人間の意志は人間の気持ちを動かすものだ。誰もが何かをしたいと意識すると、ワクワクしたりハラハラしたりと気持ちが自然に動くだろう?誰の身体の中にもそうしたさまざまな気持ちの要素である「気」が充満しているのだよ。だから、人が何かをしたいという意志を持てば、それに見合った気持ちが動き出し、肉体もそれに付き従って動き出すものなのだ。だから、正しい意志を持つことが肝心なのだよ。いいかね、決して悪い意志や弱気な感情に従って肉体を暴走させてはならないんだぞ。」

●心が身体を動かす

この一節は、心身統一合氣道の創始者:藤平光一先生の、「心が身体を動かす」という言葉に集約されています。「氣を出す」という言葉を教室ではよく使いますが、世間一般にはその言葉は、「がんばれ、踏ん張れ、やる気を出せ」という意味に聞こえると思います。もしかしたら、皆さんの中でもそうやって翻訳されているかもしれません。しかし、「そんなこと言われても、がんばれないんだよ」という時は誰だってあります。心を積極的に、前向きにするんだ、そんなことは言われなくても分かっていますが、なかなかそうもいかないことがある。それが、「氣の滞り」です。氣が滞っている時は、心を自在に使うことが出来なくなります。そういう状態にある人に、ただただ「がんばれがんばれ」ということは、ある種の拷問のようなもの。うつ状態に人に「がんばれ」は禁物とよく言われていますよね。なので、まずは氣の滞りを晴らすこと、そのために「氣を出す」は有効です。どうすれば氣が出るのか、そういうことを我々は日々の心身統一合氣道の稽古の中で学んでいるわけです。

たとえば「手をあげよう」と思うと、自分の手が上に行く、というような意味で、「心が身体を動かしている」、そのことに異論のある人はほぼいないと思います。しかしこの言葉には、もう少し広い意味があります。一つは「心」の捉え方、もう一つは「身体」の捉え方です。

多くの場合「心」というと、自分の自覚している心、つまり顕在意識(現在意識)をイメージします。しかし稽古でさんざん言っているように、エネルギー的にはそれをはるかに超越する「潜在意識」も存在しており、我々は潜在意識の影響を強く強く受けて生きています。つまり、身体を動かしている「心」には、我々が自覚していないけど物凄いパワーを持っている「潜在意識」も含まれているわけです。顕在意識のコントロールは簡単です。「意識して○○する」だけで良いのですから。しかし、潜在意識をコントロールするのは、日常の習慣から変えていかなければなりません。生まれて以来、長い長い間で潜在意識に組み込まれているようなことは、それを変えるためには膨大な努力が必要になりますよね。
「心」で思っているのに、「身体」が思うように動いていない。そういう場合、自覚していない部分の「心」、すなわち「潜在意識」ではどうなっているのか?これを問うことが、とても重要になってきます。

そして「身体」というと、手や足、顔、胴体、といった部位がまず思いつきますよね。それらは意識して動かすことの出来るものですから、心によって動かされていることが、とても分かりやすい。しかしついつい忘れてしまっているのは、我々の生命を支えている臓器や血管、神経、血液など体液、脳内物質、ホルモン、等々。。。見えない部分も当然ながら「身体」の一部です。そしてそれら生命維持機能ももちろん「心」の影響を受けているのだ、ということです。たとえば、重圧のかかる仕事を抱えて胃が痛くなる、とか、イライラして血圧が上がる、とか、緊張しすぎて下痢になる、とか。。すべて「心」によって「身体」が動かされています。

我々の健康のために、食事や運動、姿勢、呼吸、睡眠など、大切なことはたくさんあります。しかし私は、何よりもどんなことよりもまず絶対的に大切なものが「心」だと思っています。他のすべてを整えても、この「心」がおろそかになっていると、健康ではいられなくなる。それぐらい大事です。

●想いが出来事を左右する

そしてこの「心が身体を動かす」という言葉は、自分の心身の問題だけにとどまらず、もう少し広い意味で捉える必要があります。それが、自分の周囲に起こる出来事のすべてが、自分の心のあり方の影響を受けているのだ、という考え方です。たとえば、職場にとてもキツい性格の上司が転勤してきて、毎日ピリついて仕事をしている、なんていうケース。単純に現象を捉えると、会社が変な上司を配置した、と自分の意志に関係なくマイナスな環境が与えられたようにも取れます。しかし、上司の性格がキツい、と認識したのは自分の心です。毎日ピリついている、と感じているのも自分の心です。上司とコミュニケーションが取れて、話してみたら実は面白い人で、ちょっと抜けてるところもあって、真面目に仕事をしているだけの良い人だった、などと印象が変わると、このマイナスな環境は勝手にプラスに転じてしまいます。もし「キツい人」という印象のまま、つかず離れず距離をおいた関係のままだったら、ずっとピリついてコミュニケーションが薄いまま過ごしてしまうかもしれませんよね。

このコラムでも何度か書いてきましたが、人は自分の見たいものを自分の見たいようにしか見ていません。つまりは、「心」が先にあり、あとから状況を感じ取り、分析をして、結論づけています。なんなら、自分の足りないことマイナスな要素も、周りの環境のせいにしたりもします。発生しているマイナスな要素が、自分以外の誰かや何かのせいである、と捉えている間は、問題を自分で解決することは出来ません。他人(の心)を変えることは出来ないからです。無理に他人を変えようとすると、そこには衝突、抵抗、トラブルが発生し、ますます上手くいかなくなります。原因を自分(の心)にあると考えられれば、その出来事は自分で対処可能なことになります。

こういうととても薄っぺらく感じられてしまいますが、私は「夢を叶える」ということが、「心が身体を動かす」ことの先にはあると思っています。(本当は「夢」と言ってしまうとそれは実現しにくいことのように思えて、私は実は好きではありません。「志」とか「目標」の方が、そのことを本当に実現しようとしているように感じられるんですよね。)「想い」によって「心」が変わり、行動が変わることで運命が変わる、というのはよく言われていることですよね。ですから、自分自身の「心」をコントロールすることは、自分の運命をコントロールすることにも繋がっています。

●心身統一合氣道でしていること

それだけ重要な「心」をいかに自分で思うようにコントロールするか?これが心身統一合氣道で稽古していること、そのものだと私は考えています。前半にありましたが、氣が滞っている(=「氣が出ている」の反対)状態では、「心を自在に使う」ことが出来なくなります。過去の小さなトラブルがどうしても忘れられなくて、普通に接することが出来なくなって苦手にしている、そんな人はいませんか?何かに執着していることで氣は滞り、心はマイナスな状態のままモヤモヤしてしまいます。これは心の「停止」状態です。一つの滞りが、心を自在に使うことを邪魔している状態です。

心身統一とは、心を停止させず、心身ともに自在に動ける状態です。心も身体も、何かに囚われて自由を失っている時は、思うように動けなくなってしまいます。「天地と一体」、無限に広がる大自然と一つになった心の状態とは、何ものにも囚われていない自由な状態です。そういう時、たとえば誰と接しても明るく優しく穏やかな心でいられます。登山をして山頂から雲海の広がる絶景を目前にした時、田舎で夜空を見上げて満天の星空を堪能している時、などを思い浮かべてみてください。誰かを恨んだり悲しんだりイライラしたり、そんな時の自分をちっぽけに感じて「まあいいか」、なんていう大きな心になれるとは思いませんか?
そんな聖人のような大きな心を、毎日、いついかなる時でも発揮できたとしたら、とても生きやすい人生になるとは思いませんか?心身ともに健康で、元氣で楽しく過ごせるとは思いませんか?

教室での稽古が、そういうことに繋がっていることを、皆さんに感じていただければこの上なく嬉しいです。

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