沖縄返還五十年(続き)

   日記より26-8「沖縄返還五十年」(続き)      H夕闇
 かくして僕は査証(ビザ)を取り、初めて一人で旅に出た。(旅券(パスポート)は返還直前の時期に免除となった。)切符を買うと、残りを米ドルに換金したが、交換レートは固定相場制で、一ドル=三百六十円だったか。国内で最も長い急行列車にも乗った。二百キロを越えると、どこまで行っても、急行料金は一律に二百円で済んだ。
 知り合いの知り合いが沖縄本島の南部I市に居(い)て、泊めてもらい、朝晩の食事つき。昼食だけ自前で、(それだって、家に泊めてくれ島内を案内してくれた大学生が払ってくれたことも有り、)ドルは幾(いく)らも使わなかった。半月の旅で、二万円に釣りが来た。
 結果的に沖縄返還協定の施行は一月半も延期されたので、その日に僕は内地の学校に居た。もし「その時この目で現場を」見たとしても、恐らく僕の検証は潰(つい)えたことだろう。社会事象の解明には、現場検証の記録に加えて、歴史的な背景や多角的な複眼の視点を要する、という複雑な認識論が、軈(やが)て僕の中に拡がった。少しは社会的な目が育って、相対的な立ち場から考えるべく心(こころ)懸(が)けた。ということは、端的な答えは増す増す遠ざかり、面倒(めんどう)な事態に陥(おちい)ったのでもある。少年の求め勝(が)ちな即断即決は、ドンドン逃げ去った。エントロピーは増大する、という物理学上の真理が、何事も捉(とら)え所(どころ)なく伸(の)し掛(か)かって来る。
 多分そんな状況で藻(も)掻(が)いている時に宗教と出会ったのが、後のオーム真理教のエリート学生たちだったのだろう。藁(わら)をも掴(つか)むような若者の必死さが察せられ、僕は軽蔑する気にはならなかった。
 将来の開眼を懸(か)けた僕の一人旅は、(何とも大袈裟(おおげさ)だが、大袈裟なのが青春の特徴で、)意気込みの割りには、世界が開けぬ侭(まま)、不発に終わった。
 僕の社会観は結局その辺で熱を失い、滞(とどこお)り、文学の方面へ興味が向いた。巨視(マクロ)的な観点の社会や政治から離れ、微視(ミクロ)的な視線が人間へ心情へと向かった。沖縄の旅で僕は大した社会認識を得る訳でもなく、戦争中の悲劇的な歴史を勉強するでもなく、只そこの人々の気風や風土が気に入った。のん気な人たちが青い海で暮らす気風が、とても好きになった。いつか住んでみたいと思い、大学を選ぶ時も最後まで候補から捨てられなかった。
 だから、正反対の北国へ進学しても(社会科学でなく)文学を専攻した。雪の降る窓辺でロシヤ文学を読んだ。

 妻の父は、海上保安庁で経理を担当した。恐らくは、米軍や琉球政府など関係部署から沖縄沿岸の海を引き継ぐべく、返還前後から現地へ派遣されていたことだろう。単身赴任だった。ということは、五十年前の四月一日頃、高校生の僕と後の義父は、(期せずして、)沖縄本島で近所に居た訳である。
 又、その年の夏、小学生の娘(後の妻)は、夏休みに父親の赴任先を尋ねて、暫(しばら)く那覇(なは)の官舎に滞在したそうだ。その住まいの有ったO地区や役所の所在地I地区を、後に僕は妻と尋ね歩いた。長女KがU市で働いた時期で、白い南国風の高層マンションに暮らしていた。子供の頃の妻が父の役所の同僚に案内された思い出の有るI展望台へ登って見たのは、沖縄でKが結婚式を挙げた時だった。
 僕が三十年余り働いた最後の職場K高のS校長は、社会科の教員だった。夏季休暇の届けを出した時だったか、家族旅行で何度目かに沖縄へ行く、と話すと、それが教育方針なのか、と尋ねられた。教育方針などと云(い)える程の物ではなかったが、確かに子供たちを連れて幾度(いくど)も沖縄旅行をして来た。その影響か、長女は移住して四年間かの地で生活した。むすこは離島のT島で長期アルバイト。帰省中の本人に尋ねると、末の娘だけは、専攻した西洋美術史の方へ関心が強くて、一人でイタリー旅行した。
 僕ら一家は、沖縄に縁が深かった。自然美や土地柄に心を惹(ひ)かれただけでなく、現代日本の平和や豊かさが遠い南の島の犠牲の上に築かれた歴史認識を忘れては成(な)るまいし、又その事実を語り伝えたくて、何度か子供たちを現場へ連れて行った。高校の修学旅行でも行く先を沖縄に選んだ。末っ子だけ、キリスト教の影響の残る長崎を選択したが。

 修学旅行と言えば、僕自身も引率で幾度も行った。僕は通算で十指に余る程に訪れたが、その半分程は生徒に同行する場合いだった。四泊五日も禄(ろく)に寝られず、殆(ほとん)ど手当ても付かないから、決して(世間で思う程)恵まれた仕事ではなかったが、子供たちが海の色に感動する姿で、満足できた。又、生徒の研修に同伴して「ひめゆり学徒隊」等の歴史遺産を見学、生き残りの語り部から直かに話しを聞く機会も有ったのは、数少ない役得だった。
 次ぎ次ぎに死んで行った女学生たちを想像すると、目の前の高校生たちが妙に愛(いと)おしく感じられた。又、同じ引率教員の立ち場から、教え子の苦難を多々見守らねば成(な)らなかった先生たちも不憫(ふびん)だった。「平和の大切さ」という概念を、心から実感できたように思う。
 コバルト・ブルーの海、エメラルド・グリーンの汀(なぎさ)、白い波が洗うクリーム色の砂浜、、、そこに戯(たわむ)れる子らの無邪気(むじゃき)さが永く続くように、島人が和(なご)やかに暮らせるように、悲劇の無い平和な島を願わずには居(い)られない。
(日記より)

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