冬のコスモス

     日記より26-17「冬のコスモス」      H夕闇
           十二月六日(火曜日)曇り時々小雪
 瓶(びん)やカンやペット・ボトル等の回収日。けさ出しに行くと、何やら落ちて来た。確か白かったように思うのだが、直ぐに見失ってしまって、どうも定かではない。暫(しば)し待ったが、続く物が無いので、或(ある)いは見間違いかも知(し)れない、と自信が無くなった頃に、もう一度チラリ。忘れた頃に、又ホラリ。僕に取(と)って、これが今年の初雪である。
 実は今月二日に地元の気象台が初雪を観測。泉ヶ岳も初冠雪、とのニュースが流れた。然(しか)し、それは未明の降雪、早起きの僕でさえ起き出す前の出来事だった。人々が動き出した頃には、もう跡形も無かった。
 ドンヨリ曇った空から白い物が次ぎ次ぎと落ちて来る光景に「ああ、到頭(とうとう)今年も冬が来たか。」と身震いしつつ感慨に耽(ふけ)る所(ところ)の物、それこそを初雪と云(い)う。従って、(この定義に従えば、)先日は気象学上の初観測ではあっても、僕らの初雪ではない。本日こそ僕らに初めて雪が降り、冬が始まったのである。
 確かに、近頃は散歩に出ても北風が冷たい。雪虫もフラフラ飛んだ。N公園の木々は粗方(あらかた)もみじを落とし、足元でカサコソ言い乍(なが)ら風下へ走る。池の端のベンチで本を開いて没頭できる日も、もう滅多(めった)に無くなった。ジャンパーの襟(えり)を立て、手袋でページを繰(く)っても、精々(せいぜい)十分程度。
 この間まで木陰のベンチを探したものだが、今は日なたの温(ぬく)もりが恋いしい。冷たい飲み物なんか、以(も)っての他(ほか)。持参の水筒から、湯気の立つ熱い茶を啜(すす)る。この変わり様は(我ながら)呆(あき)れるばかりだ。
 今年N公園の裏で夏を越した白鳥は、姿を消した。かれこれ一月にもなろうか、もう戻ることは有るまい。この冬シベリヤから渡って来た仲間と合流できたのなら、御同慶に堪(た)えない。屡々(しばしば)への字(山型)の編隊を組んで飛ぶ群れを見掛(みか)けるが、はぐれた例の一羽が含まれているだろうか。
 妻がベランダに吊(つ)り下げた干し柿も、北風に揺れ、古い順に黒く萎(しぼ)み、(油断すると、)しぐれに当たる。下を覗(のぞ)くと、黄を帯びた野(の)苺(いちご)の葉の中に、赤い色も有る。金木犀(きんもくせい)の香りや桜桃(ゆすらうめ)の黄葉が終わった今、この庭で華やぐのは、さざんかの紅(くれない)である。初め木の天辺(てっぺん)に二つだけ咲いたが、今や数え切れない程だ。

 季節は既に初冬。それなのに、秋桜と書くコスモスは未だ頑張(がんば)っている。
 もう二十年も前、亡父と共に裏の土手下で道沿いに細長く切り拓いた花畑。父の孫三人も種を蒔(ま)いた。毎年それが種を落として自生する花壇だが、今年も師走(しわす)に花が一つ咲いている。
 数年前に(停年退職後)西へ伸ばした開墾地にも、二つ残った。きのうの霜(しも)に少々ちぢこまって小ぶりだが、桃色の花と淡い色合いのと。冷たい凩(こがらし)に震えつつも、未(いま)だに咲いている。
 それと、去年の新開地。隣地へ入居したAさん宅の前に、越して来たTちゃんと一緒(いっしょ)に畑を開いた。土手の草刈りが済んだ七月の末、僕が土を掘り、石を除き、小学生のTちゃんと(隣りの花壇で取れた)去年の種を埋めた。偶々(たまたま)来合わせた僕の孫のMも、Tちゃんのおかあさんも参加し、四人で種を蒔(ま)いた。
 S川と土手を管理する土木事務所の除草作業に便乗した為(ため)、種蒔きの時期としては遅かったが、立派(りっぱ)に育った。そして今年も。三箇所の花壇で最も丈が高い。ニョキニョキと、二メートル程の背丈だ。下から見上げても、よく花が見えない位(くらい)だ。余り上へ伸び過ぎて、(茎の太さが足りないのか、)自重で道路へ倒れ掛(か)かり、自動車に轢(ひ)かれる者さえ有る。倒れた株を抱き起こし、他の枝の中へ押し込んで、支えてもらうように仕向けるのだが、翌朝に又も道へ倒れていたりする。次ぎには、杭(くい)を打ち、紐(ひも)を張って支えるのだが、これも中々(なかなか)そうは旨(うま)く問屋が卸(おろ)さない。杭その物が倒れたり、紐が雨風で切れたり。
 それでも、何とか師走まで一つ咲き残った。「偉い、偉い。」と毎朝(口には出さずに)誉(ほ)めている。

 省(かえり)みれば、最初に咲いたのは五月下旬。(そう手帳に記録が有る。)赤、白、ピンクにオレンジ色、色取り取りに目を楽しませてくれた。その間、実に半年に及ぶ。一年の半分も咲き続けたのだ。無論、一つの花が半年間ズーッと咲き続けた訳ではない。一つ咲いて、別のが咲くと、前のが散った。一つの個体が咲いていられるのは、(数が多くて、一つ一つを識別できないが、)凡(およ)そ一週間が精々だろうか。
 土手の花から種が零(こぼ)れて、落ちた所が傍(かたわ)らを走るアスファルト道路。舗装の割れ目へ零れ落ちた不運に文句も言わずに、ひたすらに黙々と芽を出した者も有る。そしてスクスクと逞(たくま)しく育ち、花を開いた。そういう命が愛(いと)おしくて、水を撒(ま)く際、その逆境の花へ特に与えた。種を取る時も、是非その株から取った。懸命に咲いて種を育てた花の子孫を、来年へ残してやりたい、と思う。自然に任せれば、この花から種が零れる先は、恐らくアスファルトの上。種は芽を出せない侭(まま)で朽(く)ちるだろう。アスファルトの割れ目で必死に生きた者の悲願を、何とか叶えてやりたい。自然主義の僕も、そんな時は力を貸す。

 先日、散歩する初老の夫婦と立ち話しをした。
 僕が自宅の裏の花壇で種を取っていると、向こうの(A宅裏の)新開の花壇に立ち止まり、語らい乍ら眺(なが)めている。コスモスが気に入った様子だから、「蒔く所が有れば、種を上げましょうか。」と声を掛けた。ここの花畑は(来春も蒔かなくとも、)自然に零れた種だけで充分に咲き誇る丈(だけ)の自力が有る。残念ながら、(夫妻はマンション暮らしなのか、)蒔く所が無いとのこと。
 そして、雀(すずめ)が花畑に群れて種を啄(ついば)んでいる、と言う。確かに、雀の群れが来てジュクジュク騒いでいることが時々有るが、種を食べているとは僕も知らなかった。そうやって食べられた種の一部は、鳥の胃袋の中で遠くへ運ばれて(消化される前に)糞(ふん)と一緒に新天地を見い出すだろう。そして運命が開けるだろう。
 アスファルトの割れ目で生きる健気(けなげ)な花にも、二人は感心したようだ。その姿に事寄せて「人間も頑張らなければ。」と僕が言うと、初老の二人も愉快に笑った。
 夏炉(かろ)冬扇(とうせん)と言うが、冬の秋桜(コスモス)は「季節外れで、役立たずな物」を必ずしも意味しない。厳しい北風に抗して咲く野の花は、寧(むし)ろ老いた身を励(はげ)まして余り有る。
                            (日記より)
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   「冬が来た」
            高村光太郎

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
                      (詩集「道程」より)

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