日記より25-12「藤原彰子の出産」(続き)

     日記より25-12「藤原彰子の出産」(続き)   H夕闇
 最愛の妻(定子)が出産死した後、その面影(おもかげ)を夫(一条)は何年も追って暮らした、と見ることが出来そうだ。彰子は今日風(ふう)に後(のち)添(ぞ)えと云(い)うより、先妻の生前から無理矢理(むりやり)に押(お)し掛(か)けて来ており、こちらの方が身分は上。そう企(たくら)んだ舅(しゅうと)(道長)への反発から夫は敢(あ)えて男(おとこ)寡(やもめ)を託(かこ)ち、幼妻へ近付かなかったのではないか。それとは別に、第二夫人が「いつまでも未練に一人で塞(ふさ)いでないで、こちらの読書会へでも参加してみませんか。」と誘って、陰鬱(いんうつ)な気分を慰(なぐさ)めて上げた、といった具合いかも知(し)れない。そこに物語られるのは、人の世の浮き沈みや男女の心情など。青年天皇には思い当たる節々も有って、スッカリ「源氏物語」の虜(とりこ)になったのだろう。遅(おく)れ馳(ば)せ乍(なが)ら、そういった語らいの内に若い新妻との間にも情愛が芽生え、軈(やが)て男児に(それも立て続けに二人も)恵まれることになる。                
 彰子の立ち場から整理して見ると、そういう自然な経緯だったのではないか。但し、そういう風(ふう)に自然に事が流れるように仕組んだのは、(悪く云(い)えば、陰謀を巡(めぐ)らして人の真心を操(あやつ)ったのは、)彰子の父である。娘夫婦に自然な流れと感じられたとすれば、する程、道長の手腕が老獪(ろうかい)だったと云えよう。但し、この人だけが特に腹黒かった、というのでなく、政治とは当時そういうものだったのだ。
 更に、ここまでの約十年間を遡(さかのぼ)って彰子の視点から省(かえり)みたら、どう見えるだろうか。
 未だ幼い十歳余りで少女が嫁いだ宮廷社会は、豪華絢爛(けんらん)ではあっても、妙に荘重で、ひどく格式ばり、子供心には寒々しく感じられたに違い無い。只さえ輿入(こしい)れ前後は心細い頃合いだろうに、夫はチッとも新妻へ寄り付かない。良い所のお嬢さんで、風にも当てず、大切に育てられた分、世間知も無く、新しい家庭や社会で一体(いったい)どう振る舞ったら良いものやら、見当が付かず、人に対する思(おも)い遣(や)りも足りない。いや、薄情だと云うよりも、寧(むし)ろ(夫や宮廷人たちに対するに)人間関係とか心情とかに関する経験が不足で、生きる知恵が充分に育っていなかったのである。
 その点、約八百年後にオーストリアのハプスブルグ家から永らく敵国だったフランスのブルボン家へ嫁いだ満十四歳の少女を引き合いに出したら、分かり易(やす)いだろうか。女帝マリア・テレジアの宮廷で我(わ)が侭(まま)一杯(いっぱい)に育った末娘マリーアントワネットが、遠い異国の王宮で家風の違いに戸惑ったことは、夙(つと)に有名である。革命のパリで主婦たちがパンを要求する示威運動を眺(なが)め乍ら「パンが無いのなら、お菓子を食べれば良いのに。」と言ったとの逸話(いつわ)も、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する。嫁ぎ先にも社会状況にも認識が全く不足だった。必ずしも本人の責任ばかりではあるまい。産まれ育ちや身の不運と云える所も有ったろうが、革命裁判所では通らない。判決は(夫ルイ十六世と同様)ギロチンだった。
 婚家での不安と孤独から、成り振り構わぬ高慢で奢侈(しゃし)な言動がベルサイユ社交界で目立ち、国民の反感を招いたそうだ。年若い彰子も同様に無知で頼り無い思いに駆られたに相違ない。
 それに、周囲に侍(はべ)る女房たちは(父の力で一流所を揃(そろ)えられたが、)家柄を重んずる貴族主義の平安時代、血筋の良い上流の女官が選(よ)り優(すぐ)られた。何事も「良きに図(はか)らえ。」と人任せにし、引っ込み思案で、消極的に育った女性たちが多かったろう。そこには、前例どおり、仕来たり通りの沈滞したムードが、重く漂っていた筈(はず)だ。そんな環境では、年端(としは)の行かない主人が適切な助言や指導を得られる望みは無い。増(ま)す増す彰子は心細かったことが想像できる。  
 一方の定子のサロンは、と言うと、主(あるじ)自身が朗らかで活発な(当時としては少々おキャンな)人柄だったことも有って、清少納言ら女房連中も才気煥発(かんぱつ)、進取の気風が有り、ウイットに富んで、笑顔が絶えなかった。少なくとも、そう「枕草子」には書かれている。随筆で回顧された世界は、彰子側の上品な女房グループに対して大いに対抗意識を燃やし、殊更に美しく懐古された物に違い無い。
 父の死や兄弟の失脚など実家の没落を鑑(かんが)みれば、そうせずには居(い)られなかった、という部分も有っただろう。不幸を背負った皇后を皆で盛り立てて明るく振る舞う気概も、かの女たちには有ったろう。
 人を逸(そ)らさぬ明朗な雰囲気(ふんいき)が、定子の亡き後(従って御所が解散し、女房たちも散り散りになった後)も、永く語り草となった。清少納言の文章が、後々まで往時を偲(しの)ぶ縁(よすが)となった。古き良き時代を人は懐かしみ、実際以上に美化するものだ。彰子の周辺へ出入りして(間(あわ)良(よ)くば)道長に取り入ろうとする公卿(くぎょう)たちの中にも、センスの良い定子たちとの思い出を胸中に抱き続ける者は、多かっただろう。
 その最たる者が、夫(帝)であった。愛妻を亡くした喪失感と孤独から、懐旧の念は尚更(なおさら)だった筈(はず)だ。哀愁から逃れたくて偶(たま)さか訪れた一条を、優しく受け入れるだけの包容力が、十年の時間の中で若い彰子にも育っていた。表面は上品ぶった賢そうな女房たちの中にも、文学で主人の夫を慰(なぐさ)める力を持った者も居る。それを頼りに訪れる夫と、来(こ)し方(かた)行く末について語り合う機会が、若い妻にも持てるようになった。漸(ようや)く夫婦の気持ちに絆(きずな)が芽生えたものか、初めて懐妊の兆(きざ)しが見えた。
 実家の男たちは、どんなに喜んだことか。この十年間その期待に応えられぬ無念が、娘に欝々(うつうつ)どれ程の重荷となっていたか。だが、加持(かじ)だ祈祷(きとう)だと取り乱して騒ぐのは実家の人々や取り巻き連中ばかりで、「紫式部日記」に中宮の悪阻(おそ)は描かれない。当の妊婦が、産みの苦しみを表に出さず、健気(けなげ)に耐えたのだろうか。ここまで来れば、後は運を天に任せて、胎児が男の子であることを密かに願うばかりであろう。
 そうして産まれた子が、男児だったとは!然(しか)も、翌年には次男まで。これで彰子は自(みずか)らの大任を果たし、ホッと大きな溜め息を漏(も)らした筈だ。
 定子腹の敦康親王も含めて三人の中から誰が春宮(とうぐう)(皇太子、即ち次期天皇候補)に選ばれるかは、もう女の世界の事柄ではない。最早(もはや)ミッションは完了したのだ。肩の荷を下ろし、後はユックリ子らの行く末を見守れば良い。妃に育児の仕事は無い。それは乳母(めのと)や下女たちの職責である。
 平安貴族の娘たちの宿命(父の権力争いの道具としての重責)は、遂(つい)に為(な)し遂(と)げられた。

 「これじゃあ、まるで政略結婚じゃないの!」と現代女性は憤慨するだろう。いかにも然(しか)り。この平安時代の姫たちに取(と)って、政略結婚でない結婚は有り得なかったのだ。結婚とは、即ち家と家との(親同氏の)政略だったのだ。妊娠出産は、即ち実家から与えられた任務だったのだ。「あなた方は何と自由な時代に生きているのだろう!」と多分かの女たちは驚き呆(あき)れ、「千年後の女の一生とは何か。」と問うだろう。
 最後に、その後の政界も眺(なが)めておこう。第六十六代一条天皇の死去に伴(ともな)い、一〇一一年に即位したのは三条天皇だった。(道長の姉であり一条の母である詮子(せんし)の強要で一条が渋々(しぶしぶ)道長へ内覧(ないらん)の宣旨(せんじ)を下した九九九年より早く、三条は九八六年に立太子し、次ぎの帝に予約されていたので、いかんともし難(がた)かったのである。)が、その三条天皇が一〇一六年に永眠。六十八代目の帝位を得た後一条天皇とは、彰子の産んだ敦成親王に他ならない。そして、この少年天皇の摂政(せっしょう)に任ぜられたのが、満を持した外戚(母方の祖父)道長だった。更に、次代一〇三六年に即位したのは、弟の敦良親王(後(ご)朱雀(すざく)天皇)その人で、その摂政は彰子の弟頼道(よりみち)であった。上東門院(彰子)は永く国母(天皇の母)として天寿を全うし、一〇七四年に八十七歳で他界した。                                (日記より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?