日記より25-18「講師依頼」

     日記より25-18「講師依頼」          H夕闇
                十一月十七日(火曜日)晴れ
 頭を洗った晩に娘が帰省。毎日ふろに入り、きょうは三人分の洗濯をした。又、ふろ場や洗面台の鏡の棚(たな)に化粧品やら何やらの小瓶(びん)がズラリと並び、「おとうさんのタオルを(御親切にも!)交換してあげたから。」と言われた。? 浴室のタオル掛(か)けに、新品が下がっていた。一方、僕が永らく使って来たタオルは、屑(くず)籠(かご)で発見。「雑巾(ぞうきん)より非道(ひど)い。」と妻が予(か)ね予ね苦情を言っていた愛用品だけに、どうも女性軍の動きが怪しい。
 末娘は実家で羽を伸ばし、昨今は朝食を摂(と)らない習慣だとて、朝寝を決め込んだ。それから、母方の祖母に会うとて、昼前に出掛けた。帰郷する前から連絡を取って、再会の段取りを自(みずか)ら整えたとのこと。手みやげを多々持たされて夕食前に帰宅したが、(煩(わずら)わしい話しも諸々(もろもろ)有ったろうに、)多くを語らない様子だ。その寛容さを、実の娘(妻)は感心して眺(なが)める。きのうS学園と情報交換に行った時よりも娘は疲れたらしく、早く床に就(つ)いた。
 末娘が外出した後、妻は図書館へ、僕は昼食後にN公園へ散歩に出た。以前(停年退職の直前)K高に在職した頃、同僚のSさんから勧められて、夫婦で鳴子峡もみじ狩りに通ったものだが、去年から二秋は新型コロナ・ウイルス感染症を用心して休んでいる。代わりに、近場の森や公園の紅葉で満足している。往復の車窓から秋の田園風景を堪能(たんのう)できないのは、残念だけれども。

 散歩で不在の間に、K高で世話になったM教頭から講師依頼の電話が入った、と妻が言う。(確か僕の住むS市内へ転勤した筈(はず)だった。)夕方に再度の電話。現在はI市の高校で校長を勤めるそうだ。病休が一人出て、非常勤講師が必要になり、僕を思い出したと言う。教員志望の若者が年々多いと聞くのに、有り難いことだ。元々腰の低い人だったが、三顧の礼、輪を掛けて丁重(ていちょう)に招かれた。
 だが、こちらも辞を低くして断った。一番の理由は、COVID⒚第六波の懸念。僕ら夫婦は去年から旅行に出ない。都心に用が出来ても、僕は(前から出来る限り)地下鉄を使わず、自転車で走る。
 それに、毎朝の生活時間も問題だ。K高に勤めた三年間、妻は四時に起きて朝食と弁当を用意し、僕は五時起きだった。どうせ僕は早起きだが、K駅からの山道を半時間ほど自転車で通うのは、中々(なかなか)に疲れた。時々こむら返りに襲われた。雨の日はカッパを着るが、その濡(ぬ)れ物の始末(しまつ)に困った。かと言って、持ち歩かない訳には行かないなど、具体的には細々と面倒(めんどう)が多かった。I高の場合い、S線の最寄り駅から通勤事情は一体(いったい)どうなのか。その職場の地理について僕は見当が付かない。

 只、I市内に有ること丈(だけ)は、校名から確かだろう。十年前そこは十メートル程の津波に襲われ、東日本大震災で最も多くの死者が出た町である。三月十一日からでは手遅れだったが、僕は次年度の転勤希望に「被災地で働きたい。」と書いた。十年の間に復興も進んだろうが、これは或(ある)いは(遅(おく)れ馳(ば)せ乍(なが)らも)漸(ようや)く巡(めぐ)って来たチャンスなのかも知(し)れないと、実は僕は気持ちが揺るがないでもなかった。
 あの時の転勤先は結局K高に決まり、赴任して見ると、KはI程の被害ではなかった。確かに町から茅葺(かやぶ)き屋根が消え、学校体育館は修理中だったが、津波は内陸のK地区までは来なかった。  
 然(しか)し、(震災とは別に)底辺校には現代社会の問題が凝縮されて現れ、生徒たちの家庭や成育歴に貧困など様々な歪(ゆが)みが垣間見(かいまみ)えた。そこで停年前の教員生活を経験できたことは、(当時は大変だったが、今にして思えば、)予期せぬ収穫だった。
 それはそれとして、今は被災地I市で働きたいか、と改めて自問した。答えは否(いな)だった。
 被災した人々を支えたいとの情熱は既に失せた、という訳では必ずしもない。が、第一に(少なくとも)目に見える復旧は既に済んで、具体的に支援の形を探るのは難しいだろう。時は過ぎ、もう出番は終わってしまった、といった感じがする。乗り遅れた列車の後姿を見送るような虚(むな)しい印象が、今更のように残るばかりだ。又、十年間に他の方向へ価値観が傾いたことを、今は自(みずか)ら確かめた。
 自分の勉強をしたい、と僕はM先生に答えた。当時K校の教頭だった先方は、僕の異動調書で転勤希望を見ていて、もうI市は復興が進んだと肯定した。
 暫(しば)し受話器越しに懐旧談。向こうは依頼し、こちらは謝絶、それに内容が被災なのだから、会話が弾んだとは言えないが、それにしても懐かしかった。

 自慢じゃないが、退職まで(校長や教頭は勿論(もちろん)、)部長も主任も一切(いっさい)したことが無い僕と違って、かれは若くして管理職に昇進した立身出世の人だ。以前に対立した管理者たちとは相当に違ったタイプの人柄で、部下にも懇切丁寧(ていねい)、人当たりが柔らかく、僕も親しく交わらせてもらった。その人が来春は停年とのこと。未だ早いが、御苦労様でした、と僕は心から挨拶(あいさつ)した。
 K高で僕は(S校長と共に)最高齢。多忙を極めた職場だったが、僕は様々(さまざま)に労(いたわ)られた。皆が気を使ってくれて、(出来る丈(だけ))楽な仕事を回されたように思う。僕は元から長幼(ちょうよう)の序(じょ)というのが嫌いで、(極力)御遠慮(えんりょ)したい所(ところ)だったが、交通の便の良い都会と違って、車で自由に移動できないことは決定的だった。結果、僕は(前任のS高を最後に)担任を持つことは無かった。(授業の受け持ちクラスで日記だけは配ったが。)その意味で、K高の職員室では随分と皆から世話になった。
 それに、T高での教え子が二人も教諭として在職。僕が机上の本棚の隙間(すきま)からチョイと話し掛けたら、机の島を回って走って来て、こちらが却(かえ)って恐縮した。同僚ではなく、未だ子弟の関係として、僕は下にも置かれなかった。K校では向こうが先輩で、色々教わったのに、過分に敬(うやま)われた。
 一致団結の気風が、あそこの職員には有った。教育の現場が厳しく、そうしなければ崩壊さえ懸念されたからだ。(実際、心の病で休職する人も居た。)冬の一日、皆で鶴嘴(つるはし)やスコップを持って出掛け、凍結した通学路の氷塊を叩(たた)き割った。大雪には総出で除雪もした。良い汗を掻(か)いたことを思い出す。
 電話の彼此(ひし)で回想を共有した。久しぶりに職員室の匂いを嗅いだ。        (日記より)

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