日記より25-14「孫キャンプ」(続き)

   日記より25-14「孫キャンプ」(続き)       H夕闇
                八月三十一日(火曜日)曇り
 朝一番の連れションから戻ると、Mが「パン食べたい。」と小さく言った。買い置きを自家用車から探し出し、大岩の上から四本の脚を投げ出して、ゆっくり頬張(ほおば)った。他のテントは薄い朝(あさ)靄(もや)に包まれて、眠っている。朝(あさ)未(ま)だ来(き)の谷合いの景色を、清々しい肴(さかな)とした。
 朝日は木(こ)の間(ま)隠(がく)れにチラチラ曙光を投げて来るが、対岸の山影から未だ昇らない。こちらの山頂の木々だけが、早くも強い日差しを浴びて光っている。その間の谷はヒンヤリと白く沈み、早瀬の音に紛れて野鳥が鳴く。聞き覚えの無い山鳥だ。そこへ、一日の暑さを予告するような油蝉(あぶらぜみ)。
 むすこは未だ(安心して子を預けた侭(まま))いつ起き出すとも知れず、残ったカレーを温め直す術(すべ)を僕は知らない。前日の内に買っておいたパンで当面を凌(しの)いでから、孫は小石の汀(なぎさ)へ降りた。
 そして、平たい石を探しては、川へ向かって投げ始めた。だが、腕を不器用に固定した侭、体全体を振り回して投げるのだ。だから、いつ手から石が離れるか、どこへ飛ぶかも知れない。小石は弧を描いて落下。幾(いく)つ投げてもドボン。ジージのように水の上を何段も跳(は)ねて行かない。
 でも、一度だけ、ポーンと放られた石が、川中の岩に当たって跳ね返った。それを、きっとMは石が水を切って弾(はず)んだ(やった!)と誤解したのだろう。こちらへパッと振り返った表情は、眉を上げ、目を大きく見開いて、いかにも自慢(じまん)気(げ)だった。そのアイ・コンタクトに、恐らく僕も賛同の顔で応じただろう。
 然(しか)し、実際は、肘(ひじ)や手首の返し方が出来ず、未熟だ。とは言え、僕だって、水を切った石が(しぶきを上げて)水面をピョンピョン跳ねて行くようになるまでには、相当な数を投げた。姿勢を低くして、石の平らな面を水と平行に飛ばすには、未だ未だ時を要するだろう。永い多くの蓄積の上に、ある日フと四肢が(手本やイメージそっくり)機能的に繋(つな)がる瞬間が、きっと訪れることだろう。その時に僕が折り良く立ち会えるか、どうか。それは別問題で、きっと無理だろうな。
 それでも、子供の頃(否応なく)おやじから重い荷物を背負わされて連れて行かれたキャンプを自(みずか)ら思い立った伜(せがれ)のように、いつか遠い過去の体験が不意に物を言う時が来るかも知れない。そう信じて、僕らは種を蒔(ま)いておくしか有るまい。テントの傍(かたわ)らで見上げる星たちが皿のように大きく迫って感動する日が、軈(やが)てMにも来るだろう。
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                九月四日(土曜日)曇り+低温注意報
 秋保温泉の奥(磊々峡の上流)のキャンプから帰った後、今週は天気が大きく変わった。秋雨前線が再度(盆休み期間に続いて)停滞して、雨が降ったり已(や)んだり。気温もグンと下がって、半袖(はんそで)半ズボンでは寒くなった。
 昼下がりにドア・ホンがピン・ポーンと鳴った。隣りのAさんの声で、回覧板を持って来たと言う。いつもTちゃんが持って来るのだが、きょうは母堂だった。
 玄関で受け取って、コスモスが咲いたことを話題にすると、先方は色とりどりで綺麗(きれい)だと応(こた)えた。自生して年季の入った我が家の裏の花畑では、確かに白やピンクから臙脂(えんじ)色(いろ)まで(更にオレンジ・コスモスも)様々な色が咲き揃(そろ)った。それを言うのだろう。だが、A家の前(夏休み前に孫のMや隣家のTちゃんと一緒(いっしょ)に種を蒔いた土手)では、未だ薄桃色(うすももいろ)の花一色だけ。それも、Aさんは花が二つ咲いたと言った。
 確かに大きく伸びた天辺(てっぺん)で開いたのは二輪だが、もう一つ奥まった(目立たない)所に咲いたのには気が付いていないらしい。僕は外へ出て行って、コスモスの茎を掻(か)き分(わ)け、隠れた小さな花を示した。
 きっとTちゃんも気付いておらず、これで母堂から知らされることだろう。本当は僕の口から教えたかったのだが。それに、Tちゃん手製のチョコ・ケーキを頂(いただ)いた礼も、未だ言っていない。直ぐ隣りに住んで居乍(いなが)ら、案外と会わないものだ。
 Mへは咲いた当日(今月一日)に父親へEメールで伝言を頼んだ。
 種蒔きから三日で芽が出たが、一月半で花が咲いた。

 前A政権の疑惑(もり+かけ+さくら)を国民に解明せず、コロナ下でオリ・パラを強行したS首相が辞任するらしいが、その末路に僕は興味が無い。アメリカ軍が敗走した後(二十年前と同様)イスラム原理主義の武装勢力タリバンが戻って来たアフガニスタンの方が、寧(むし)ろ気に懸(か)かる。
「帝国の墓場」と云(い)われる如(ごと)く、遠くアレクサンドロスを始めとして、大英帝国、旧ソ連、アメリカが食指を伸ばしては、次ぎ次ぎと潰(つい)え去った。そして今度は中国が「一帯一路」の中継拠点として狙(ねら)うのか。
 一昔前ここからソ連軍を追い出す為(ため)にウサマ・ビンラディンと国際テロ組織アルカイダを育てたアメリカには、忘れられない成功体験が有ったのだろう。アジアの小国で軍国主義を叩(たた)き潰(つぶ)して民主国家を打ち立てた栄光の記憶が。その夢を朝鮮でも試(こころ)み、更にベトナムへ、アフガニスタンとイラクでも再現しようとしたが、日本ほど素直にアメリカ的な価値観が受け入れられることは二度と無かった。何故?一番(いちばん)弟子(でし)は忠実だったのに、物や金が豊かであることは断然ハッピーなのに、、、と米国は首を傾(かし)げるのだろう。
 自(みずか)らアメリカナイズして焼け跡から戦後復興し「アジアの奇跡」と謳(うた)われた日本、ジープの米兵にチョコをねだった戦災孤児の姿が、撤退する米軍機に追(お)い縋(すが)るアフガン人と、二重写しに見える。
 半世紀前のサイゴン陥落(かんらく)を思い出した人も、多いそうだ。米大使館の屋上から飛び立つヘリに現地人職員が何人もブラ下がった衝撃的な映像を、僕も覚えている。かれらもアメリカに協力したことで新政権から処刑(少なくとも迫害)が予測されたのだが、その後どうなったのだろう。報道や歴史学は(一握りの支配者のみならず)名も無い絶対多数の庶民を追及して欲(ほ)しい。そこにこそ人類の真実が眠る筈(はず)だ。
 石油王ロックフェラーが建てた(従ってアメリカ資本主義の象徴とアルカイダには見えた)世界貿易センター・ビル等で同時多発テロが行われたのが、今世紀の幕開けだった。これから世界は一体(いったい)どこへ向かうのだろう。五輪だって、(感染拡大だけでなく、)確か経済効果の前評判が高かったが、無観客で財政赤字は悪化。テロの危険性も極大化した。公表される程の大過は(幸いにも)免(まぬが)れたが、その為(ため)の警備の費用を負担する気はB会長には有るまい。
 僕らの学んだ社会や歴史の見方を、次世代に伝えたい。それは「アスリートから勇気を貰(もら)った。」と言う程に安易ではないだろうけれど。
(日記より)

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